さまざまな元球児の高校時代に迫る連載「追憶シリーズ」。第9弾は畠山準氏(53)が登場します。

 池田で1982年(昭57)に徳島勢初となる夏の甲子園優勝を果たしました。「攻めダルマ」蔦文也監督に鍛え上げられ、準々決勝では大会の華だった早実の荒木大輔投手をホームラン攻勢で打ち崩すなど、「山びこ打線」の力は強烈でした。そのチームのエースで4番が畠山氏でした。

 ただ、期待されて入学しながら3年生の春までは甲子園出場に手が届いていません。苦しい時期の方が長かったでしょうが、それもいい勉強ととらえて夢を見続け、最後の夏につかみ取った栄冠でした。

 畠山氏が一生懸命に取り組んだ高校野球を全10回でお送りします。

 7月3日から12日までの日刊スポーツ紙面でお楽しみください。

 ニッカン・コムでは、連載を担当した記者の「取材後記」を掲載します。


取材後記

 畠山さんと会うのは今回が初めてでした。池田の3年生時に畠山さんがエースで4番として夏の甲子園優勝を飾った82年当時、私はプロ野球近鉄バファローズ担当で、8月の全国高校野球選手権大会開幕直前の甲子園練習取材には駆り出されていますが、大会中は甲子園にほとんど行っていなかったようです。高校時代の畠山さんへ1対1で行うインタビュー機会はありませんでした。

 翌83年から私はアマチュアスポーツ担当となって、同年夏に池田野球部密着取材を始めています。82年夏、83年春と甲子園で連続優勝し、夏春夏「3連覇への道」と、池田に全国の目が注がれた時期でした。そこから十年余は池田番。83年の3年生、エースで主砲の水野雄仁さん、主将の江上光治さん、強打者の吉田衡さん、捕手の井上知己さん、名マネジャーの中西道弘さん、86年の3年生で選抜高校野球大会優勝投手の梶田茂生さんら、池田を卒業した後も取材を続けている人たちがいます。

 そのためでしょうか。水野さんらの先輩である畠山さんと初めて会って、ずいぶん以前からの知り合いであるような空気を感じました。「攻めダルマ」の異名をとった蔦文也監督の秘蔵っ子として、山あいの町で3年間過ごした人たちに共通するエッセンスを感じ取ったのだと思います。

 畠山さんの奮闘、特攻隊員だった蔦監督の平和な時代へ寄せる思い。この師弟の名前に関して起こった、笑い話のような切実な願い。甲子園決勝前夜の蔦監督と畠山さんの2人だけの誓い。高校時代の日々は今なお鮮明のようです。

 畠山さんは最初で最後となった甲子園出場で頂点へ駆け上がりましたが、高校入学後3年春までたどり着けなかったことを含めて、甲子園の存在をどう受け止めていたのでしょうか。答えはこうです。

 「高校球児が夢に見て、行きたいという神聖な場所だと思います。たとえば神奈川だと190近くのチームが参加してレベルはいろいろだと思いますが、甲子園というのが目標にもなるし、行けなかったら行けなかったで、その過程でいい勉強、いい経験もしているのだと思っています」

 プロ野球横浜DeNAベイスターズ事業本部の野球振興・スクール事業部での仕事柄、畠山さんは小さな子供たちへ野球の魅力を伝える催しも手がけます。次世代の球児に、夢見る幸せを気づかせてくれそうです。

 畠山さんのインタビューを終えて3日後のことでした。なにげなく稲垣潤一のアルバムを聴いていて、流れてきた歌詞に心が動きました。

 夢見る頃を とっく昔過ぎても

 忘れられない トキメキがある

 夢見ることを 忘れてちゃ駄目さと

 想い出が僕の 背中を叩くよ

 (「バンジョー・レイン」作詞=湯川れい子)から

 畠山さんが言っていたように、夢見ることは「その過程でいい勉強、いい経験もしている」のでしょう。畠山さんを通して、私も心の奥にいい刺激を受けていたことを感じました。「夢見ることを忘れてちゃ駄目」なのです。【宇佐見英治】