全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える今年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」の第12弾は、星稜(石川)を率い、現在は同校の総監督を務める山下智茂さん(73)です。

 山下さんは星稜監督時代、箕島(和歌山)との対戦など、数々の名勝負を繰り広げました。名指導者の物語を全5回でお送りします。

 2月27日から3月3日の日刊スポーツ紙面でお楽しみください。

 ニッカン・コムでは、連載を担当した記者の「取材後記」を掲載します。

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 星稜・山下智茂総監督の甲子園時代に、忘れられない光景がある。95年夏の帝京(東東京)との決勝戦。春夏通じて初の優勝を目指した星稜は、1-3で敗れた。うなだれて整列に向かったナインの後ろで、ベンチ前の山下監督(当時)が動いた。ネクストバッターズサークルめがけて素早く走り、置かれたままだったバットを片付けた。

 北陸勢初の優勝の悲願まで、あと1歩だった。だが1歩を踏み出す前に、チームは満身創痍(そうい)になっていた。捕手の三浦聡は左膝靱帯(じんたい)を損傷し、試合出場すら危ぶまれた。三塁手の中川光雄は右肩と右手薬指、左翼の長津慶吾は足を負傷。準決勝で、そこまで4試合完投のエース山本省吾が左足内転筋の肉離れを起こした。

 山下・星稜にとって、初の決勝だった。両手を血まみれにしながらノックを打って選手を鍛え上げ、ついに臨むことのできたファイナル。なのに大一番を前にして、選手の無事を祈る状態だった。

 チームドクターとともに宿舎で治療に手をつくし、それでも痛みの引かない教え子の姿に、日本高野連・田名部和裕事務局長(当時)に「試合できません」と告げたという。日本高野連は理学療法士を3人、つけてくれた。助けを得て、山本らは持ちこたえた。そんな一戦だった。

 力の限りをつくして頂点を目指してきた歴代ナインには申し訳ないが、星稜は記憶に残る敗者として球史を紡いできた。明徳義塾(高知)の5打席連続敬遠策で主砲・松井秀喜(元ヤンキース)が1度もバットを振らせてもらえず、2-3で敗れた92年夏もそうだった。甲子園から宿舎に引き揚げ、スイカを食べながら「やっぱり星稜らしく散ったな。記憶に残るゲームをやるのは星稜だな」とナインに語りかけたという。

 ただ、誇らしかったのは、5度静かにバットを置いて一塁に走った松井主将の姿。バットを振れない主砲の分までと奮闘した他のナインの姿。きちんとした敗者だからこそ、記憶に残る。95年夏決勝後、監督自らバットを片付けた姿には、山下・星稜が目指してきたもの、さらには「また帰ってくるからな」という甲子園へのあいさつが込められていたのだと思う。【堀まどか】