遠くに真っ白な雪をかぶった北アルプスがそびえ、目の前に日本海が広がる。魚津エース村椿輝雄の故郷は、富山・下新川郡生地町(現黒部市)にあった。

 村椿 甲子園は雄大でした。開会式での入場行進は、自分の足でないような、なんだかふわふわと雲の上を歩いているみたいでした。

 板東と違って打たせて取るタイプの村椿は、初戦で浪華商を4安打完封。続く明治戦では味方の守備が乱れたが勝利をモノにし、桐生との3回戦も完封した。魚津を準々決勝に監督として導いた宮武英男の指導は、ある意味、徳島商の須本憲一と対照的だった。

 村椿 僕にとって板東という男はバケモノのようでした。彼は何百球も投げたらしいが、僕は長く投げても100球だった。徳島商の監督はスパルタ的だったようですが、うちの宮武さんは厳格だったけど、非常にスマートで、指導理論にしても合理的に考える人でした。

 魚津高を卒業した村椿は、三菱重工横浜でプレー後、会社員としてニューヨークにも勤務した。当時、監督の宮武夫人に紹介されたのが、魚津市出身だった現在の妻史子だ。渡米後の村椿は史子と文通を始める。当然だが、スマホも、携帯も、パソコンもない時代。恋文が2人をつないだ。

 魚津にとっては雪国のハンディを克服するのがやっとで、甲子園で勝ち進むなど、夢のまた夢だったが、あれよあれよと準決勝まで駒を進めた。その2年前の56年(昭31)9月、富山・魚津市内で大規模火災が起きていた。市内北部が焼け野原になった、いわゆる「魚津大火」だ。

 村椿史子 当時の魚津高野球部のほとんどのメンバーは被害にあっていました。私は中学生で、今の主人の村椿のことは顔も知らなかった。でも私たちはラジオにかじりついていました。地元は大火にあって復興も半ばでしたから、魚津の快進撃に沸きました。実は魚津が1つ勝つごとにちょうちん行列が行われたんですよ。はっきり覚えています。町中を練り歩いたんです。私たちにとって希望のともしびでした。

 9回を終えて板東は2安打12奪三振。一方、村椿も4安打でいずれも無失点だった。

 村椿 こっちはいつ打たれるんだろう…と思いながら投げていましたね。だって板東はまるで弱い者いじめをしているような、ねじ伏せるような投球でしたから。私なんか必死に投げているのにね…(笑い)。

 村椿と史子は70年に監督だった宮武夫妻の媒酌によって結婚する。徳島商と魚津の球史に残る熱戦は、後にラブストーリーをも演出したのだった。

 試合は0-0のまま延長戦に入っていく。午後6時25分、甲子園球場の6基の照明が点灯した。(敬称略=つづく)【寺尾博和】

(2017年5月3日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)