甲子園決勝の前哨戦は、思わぬ大差がついた。取手二のボイコット騒動が終わった数日後の6月24日。水戸市民球場にPL学園を招いた。同校はエース桑田真澄、4番清原和博を擁し、夏の連覇を狙っていた。

吉田 桑田がすごかった。試合前の遠投から糸を引くような球を投げていた。「これが2年生かよ」って。

1回表、清原にバックスクリーンへのホームランを浴びた。その裏、吉田は桑田の直球に空振りの三振を喫した。続く佐々木力はカーブで見逃し三振に抑えられた。桑田の前に走者すら出せない展開が続いた。

8回1死からエース石田文樹が中前打を放ち、何とか完全試合は阻止した。しかし、この1安打のみで完封された。清原には5打数4安打4打点と打たれた。0-13の完敗だった。

吉田 強えなあと思ったよ。オレらが練習を休んでいたからではなく、PLがすごい。目が覚めたというか、「甲子園でもう1回やろうぜ」となったね。

3番左翼で3打数無安打に終わった下田和彦も、強いショックを受けた。

下田 次の日から変わったよ。みんなバットを短く持ってバッティング練習をしていたのを覚えている。

途中出場で1打数無安打の小菅勲も言う。

小菅 確かに取り組みは変わった。「これほど打てないピッチャーがいたんだ」と、コンパクトに振ったり、打線のつながりを意識するようになった。

関東大会の初戦で法政二に負けてから約1カ月間。チームはバラバラになり、ボイコット騒動も起きた。しかし、彼らは戻り、PL学園に負けて心機一転、最後の夏に向かう。

吉田 だけどバイクは乗って遊んでたよ。夏の大会前の強化合宿も抜け出して暴走した。スピードが乗ると「もう、このまま死んでもえぇ」とね。何度もパトカーに追われて逃げた。野球やっているときは真剣そのもの。野球しか考えていない。けど、終わったら…ねえ。メリハリだよ。人生メリハリ。

茨城大会は危なげなく勝ち上がった。決勝では春に敗れた竜ケ崎一を13-3の大差で破り、甲子園出場を決めた。

甲子園に乗り込む前に、エース石田について書いておきたい。取手二の躍進は彼の存在が大きい。入学当初から、並み居る同級生の中で実力が突出していた。

彼は取手二から早大に進むも中退した。日本石油(現JX-ENEOS)を経て、88年ドラフト5位で大洋(現DeNA)に入った。現役時代の成績は1勝に終わったが、その後も打撃投手としてチームに貢献した。プロでは「大也(ともや)」で登録していた。

彼は08年7月15日、直腸がんのため亡くなった。41歳の若さだった。雨が降る同18日、新横浜駅に近い斎場で告別式が営まれた。同期入団で彼を慕っていた石井琢朗がむせび泣きながら悼辞をささげた。涙で言葉にならなかった。石田は口数が少なく、いつも穏やかな笑みを浮かべていた。彼を慕う者は多かった。

吉田 石田の実力はずばぬけていたね。先輩がいてもエースだから。真面目で、いい男だったよ。あいつの嫁さんは取手二の同級生だけど、オレは中学から一緒でね。オレが紹介してやったんだよ。

この葬儀に恩師の木内幸男の姿はなかった。(敬称略=つづく)【飯島智則】

(2017年12月5日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)