取手二のエース石田文樹は、08年に41歳の若さで亡くなった。直腸がんだった。当時は横浜(現DeNA)で打撃投手をしていた。監督だった木内幸男は、彼の葬儀に参列しなかった。

木内 怒っていたの。そんな治らねえまで何で放っといたんだ。大会社にいて何だって。あいつが死んだって信じたくない思いもあったから。でも、今は後悔してんだ。葬式にも行ってやればよかったって。

軽妙に語っていた木内の口調が遅くなった。次の言葉が出てこない。

木内 いい子だったもん。うん、石田はいい子だった…。

吉田ら暴れん坊軍団の中、石田はあまり自己主張をするタイプではなかった。ボイコット騒動の時も、黙って聞き役になっていた。チームメートの下田和彦が振り返る。

下田 石田は野球では強気だけど、普段は口数が少なくてね。みんなで話していても「そうだっぺ」「いいんじゃないか」と口を挟むだけだった。

小菅勲が退部を申し出た時も、声をかけてくれた。

小菅 「一緒に頑張ろうや」と気遣ってくれた。優しい男だった。

石田は春先から右肩を痛めていた。夏の茨城大会も14回2/3しか投げていない。左腕の柏葉勝己が29回1/3と奮闘した。石田の肩が復調するか。それが甲子園で勝ち進むカギだった。

初戦の相手は箕島に決まった。この年のドラフト1位で阪神に入る嶋田章弘、同1位で広島に入る杉本正志と、2人の好投手を擁する強豪だった。抽選会でクジを引いた吉田は顔をしかめ、石田は天を仰いだ。

試合は終盤まで箕島ペースだった。7回まで0-3とリードされていた。吉田は、ベンチで下田に話し掛けた。

吉田 「まずいよな、これ」ってね。負けると思ったから。「でも、負けたら取手の花火大会に間に合うな」と、2人で気を取り直していた。

気持ちが花火にいきかけた8回に反撃が始まった。敵失や四球と長打が絡み、2番佐々木力が同点打を放った。続いて3番下田が、勝ち越し三塁打。この回5点を挙げて逆転勝ちした。

試合後に問題が起きた。逆転勝ちに喜んだ取手二ナインは、グラウンドからインタビューが行われる通路まで大騒ぎで走った。「ヤッホー!」「勝ったぞぉ~!」。高校野球連盟の大会本部役員に怒られた。

吉田 勝ったら喜ぶでしょう。だって負けたと思ったもん。でも「騒ぐな。相手チームのことも考えなさい」と叱られた。この場だけではなく、次の対戦相手を決める抽選に行った時も「2度とやらないように」と注意されたよ。

木内も大笑いしながら当時を振り返った。

木内 あれ、うちを先導する役員の先生が和歌山の方だったのよ。その先生に怒られた。まあ、喜ばなきゃ勝った意味ないわな。せっかく強いチームに勝ったんだから、かみ殺す必要はない。ただ、甲子園は相手と同じ通路でしょ。茨城じゃ、そんなことないから。宿舎に戻ってから「相手もあるから、自分らだけで喜ぼうな」とだけ話した。

翌日には須磨海岸へ海水浴に行った。宿舎の宴会場でカラオケ大会をやった。3年生が、当時はやっていたチェッカーズや吉川晃司の歌を熱唱する。その後ろで下級生を踊らせた。彼らを「フラワーダンシングチーム」と名付けて盛り上がった。宿舎での過ごし方も、また独特だった。(敬称略=つづく)【飯島智則】

(2017年12月6日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)