センバツV腕の王は、1957年(昭32)夏も文字通り「剛腕」ぶりを発揮する。1年夏から3季連続で甲子園にやってきた。春の優勝投手の「聖地凱旋(がいせん)」である。いきなり初戦(2回戦)の寝屋川戦で延長11回ノーヒットノーランを達成した。甲子園での無安打無得点試合は春夏通じて37度あるが、延長戦での快挙は今もってこの1度きりである。どでかい金字塔を甲子園に打ち立てた。だが、60年がたった今、真っ先に王の脳裏をよぎるのはそれまでの「快投」ではない。

 3年になった春にね。済々黌(熊本)とやってね。5-7で負けたんだけど、自分では3ランを打ったりしたけど、当時は意識としては投手としての方が強いからね。高校生の時は。それが6点、7点も取られたというのがものすごいショックだった。

王にとって4季連続出場となった翌58年センバツ。初戦の御所実に完投勝ちしたものの、前年度のV腕、ノーヒッター王の投球からはほど遠いものになっていた。済々黌戦は先発して初回に3点を失うなど精彩を欠いた。8回途中で降板。11安打を許し7失点で敗戦投手となってしまった。結局、夏は全国出場を逃しただけに、これが王にとって最後の甲子園登板となった。

 高校時代は4回も甲子園に行っているし、自分の中で負けたなあ、という意識のない高校野球人生だったんだけどね。この時も甲子園には行っているんだけど(済々黌戦は)負け方がねえ。やっぱり自分としては受け入れがたい負け方だったよね。

快投を続けた2年までの王ではなかった。自分でも全く気付かないうちにフォームを崩してしまった。2年の秋まで変化はなかった。冬を越したら今までの自分ではなくなっていた。

 オフの間になぜかは分からんけど、(投球の)バックスイングで(左腕を)後ろに引くようになっちゃったんだね。ずっと(遊びで)卓球したりしていたからかも知れないけど、今も自分ではどうしてそうなっちゃったのか分からない。

ブルペンでグラウンド整備用のレーキを背中側に立てて投球させられた。テークバックの時に左腕がレーキの棒に当たってしまった。

 こんなのに当たるわけないじゃないかって言って投げた。普通に投げていたら絶対に当たるわけないはずなのに、コーンと左腕が当たったんだよね。「あれっ」という感じになってね。要するに投球フォームが変わったということ。そうなると投げることに100%気持ちがいかなくなってね。

反比例するように打撃は向上した。58年春は2戦連発で左翼と右翼にホームランを放った。この時すでに「投手王」としては終わっていたのかもしれない。不調を引きずったまま夏になった。3年生最後の夏はあと1歩のところで甲子園に帰れなかった。

不思議な巡り合わせがある。王が高校時代だった56~58年は西鉄が巨人を相手に日本シリーズ3連覇した。巨人が日本シリーズで同じ相手に3年以上続けて敗れたのは、このケースだけ。しかし、新たな時代への胎動は始まっていた。傷心の夏が終わった58年9月、王は巨人入りを決めた。(敬称略=おわり)【佐竹英治】

(2017年12月28日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)

◆「野球の国から 高校野球編」のシリーズ1「追憶」は終了し、次回からはシリーズ2「監督」がスタート。第1弾は、箕島(和歌山)を率いた尾藤公さん(享年68)です。