22歳で帝京の監督に就任した前田三夫は、順風満帆なスタートではなかった。1月の就任直後から猛練習を課し、約40人いた部員は2週間ほどで4人になった。

当時のグラウンドは、全国クラスの強豪だったサッカー部と共用していた。

「90メートル四方のグラウンドで、半々で練習していましたね。サッカー部は200人以上いる。僕が最初にグラウンドに出て、2人しか来ない。2人どうしたんだって言ったら、かぜひきましたって。僕がキャッチャーやって1人が投げて、1人が打つ。打ちっ放し(笑い)。そういうこともしばしばありましたね」

最後まで残った4人のうちの1人が、とんねるず石橋貴明の兄だった。「体は大きかったけど、貴明と一緒で硬い。いかり肩でね。4番ファーストでしたね」。4月に新1年生が入学すると、ようやく試合ができる人数がそろった。

夏の大会直前には前田が生活していた学校近くの平屋で、4人に合宿生活を送らせた。「逃げられちゃ困っちゃう。それもあるけど、4人残ったわけですから、何かしてやりたかったですね」。約1カ月、朝起こして、朝食を準備し、4人分の手作り弁当を持たせた。昼は事務職員の仕事の合間に買い出しに出掛け、練習、そして夕食をつくった。「ボーナスも全部みんな費やしてね。バットもつくった覚えがある。でも苦じゃなかったね。野球が好きだったんだね」。

初めての夏の初戦、東東京大会1回戦で9-8と墨田工を破った。わずか4人からスタートしたチームは3回戦に進出して敗れた。前田はますます情熱的に動いた。

「当時の世の中はコマーシャル時代。テレビCMがはやって。帝京を売らなきゃダメだと思いました」

9月以降、地元を中心に275校の中学校を回った。当時の初任給は3万5000円。「とにかくお金はないですから自転車で。(埼玉の)川口とか蕨とか。バスなんか乗れないですから地図買って歩いて行って、頭を下げて」と奔走した。今ではもちろん考えられないが、無名だった帝京野球部をPRするために、自宅を訪問したこともある。「今日は泊まっていきなよって、一緒に寝た思い出もある。そこまで一生懸命だったんだね」。

少しずつ強豪チームから選手が集まるようになり、結果が出始めた。就任のあいさつで「甲子園に行こう」と言って、選手に笑われてから6年。78年春には初の甲子園となるセンバツに出場する。ただ、初戦の小倉戦(福岡)は1時間58分の完封負け。「サインが1つか2つしか出せなかった。選手も私自身も初めてで非常に緊張しましたね」。もっと甲子園で上位を狙えるチームをつくりたい。その時に出会ったのが伊東昭光(元ヤクルト)だった。

熱意をもって訪ねた帰り、JR錦糸町駅で最終電車がなくなった。「タクシーで帰るお金なんてない。駅の待合室で途方に暮れていたら、新聞を巻いているオジサンがいたんだよ」。11月の肌寒い夜中。前田もゴミくずの中から、新聞紙に手を伸ばした。

「暖かいんだよ。暖かい(笑い)。新聞は暖かい。それを覚えてね、怖いもんがなくなった(笑い)。帰りに電車なくても、昔は待合室は空いてたからね。よく寝たよ」

野宿も笑い話にするほど、伊東の存在は魅力的だった。川崎球場で初めて見た投球は忘れられない。「オレはまた甲子園に行くと思ったよ。あいつのピッチングを見てね」。(敬称略=つづく)【前田祐輔】

(2018年1月23日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)