1枚のコピー紙面に記されていた日米野球の記録。そこから判明したものは、単に試合が行われたという情報だけではなかった。「日本野球伝来の祖」ホーレス・ウィルソンの生い立ちについて分かったのも、それがきっかけだった。(敬称略)

(2016年5月11日付紙面から)

調査によって発見されたウィルソンの写真(野球殿堂博物館提供)
調査によって発見されたウィルソンの写真(野球殿堂博物館提供)

 日本に野球を伝えたとされる人物。それがホーレス・ウィルソンだ。だが、どういう人物だったのかは、あまり知られていなかった。野球殿堂博物館の嘱託、新(あたらし)美和子学芸員が1876年(明9)の日米野球の記録に接した時は、顔写真も、どんな人生を送ったかも分からなかった。

 ニューヨーク・クリッパー紙にウィルソンの名前を見つけた新は、協力者のフィリップ・ブロックとともに、まずウィルソンの調査に取りかかった。手に入れたいのは経歴と顔写真。手がかりを求めて、国会図書館などでお雇い外国人関連の資料を閲覧して回った。

 1876年の当時はまだ来日している外国人の総数が少なく、調べることが可能だった。その調査の過程で出てきた事実をもとに米国のゲティズバーグカレッジに手紙を出した。若くして南北戦争に参戦したウィルソンは、大学を卒業していなかったが、日本でお雇い外国人として働く中、パーソンという友人の紹介で名誉修士号を取得していた。その修士号を取得した大学がペンシルベニアカレッジ。今のゲティズバーグカレッジだった。

 野球のことになると国境はない。ゲティズバーグカレッジの担当者も迅速に動いてくれた。偶然だが、同大は南北戦争の研究で有名で、名誉修士号を取得した当時のウィルソンとの書簡のやりとりと一緒に、米国立公文書館へ資料請求をするための書類を送ってくれた。「南北戦争に参戦しているなら、恩給をもらうために政府ともやりとりしているはず。その履歴はワシントンの国立公文書館に保管されている」と教えてくれた。

 必要書類に記入して送付すると、国立公文書館も素早く対応してくれた。すぐに12ページにわたる個人情報が送られてきた。そこにはウィルソンの人生が記してあった。メーン州のゴーラムで生まれ、南北戦争後にサンフランシスコに移り、お雇い外国人教師として日本へ渡る。日本で仕事した後はサンフランシスコに戻り、図書館で働きながらサンフランシスコ市長の手助けなどをしていたという。今はサンフランシスコ近郊のコルマという町にあるサイプレスローンという墓所に眠っている。

 余談だが、100メートルと離れていないところに、読売「巨人軍」の名付け親で、1951年(昭26)に来日した大リーグ選抜の監督なども務め、日本球界の発展に多大な貢献をしたフランク・オドールの墓所がある。広大な墓地の中に、日本で野球殿堂入りを果たした2人が並ぶように眠っている。ちなみに日本の野球殿堂博物館では、正岡子規の殿堂レリーフの両隣が、ウィルソンとオドールだ。

 その後、協力者のブロックが、ウィルソンの生まれ故郷のゴーラムで親戚を発見し、顔写真も手に入った。謎だったウィルソンの人生。それをひもとくきっかけとなったのも、1876年の日米野球を伝えるニューヨーク・クリッパー紙のコピーだった。

 だが、ウィルソンが米国からもたらした野球は、今の野球とはかなりかけ離れたものだった。「ピッチャー、振りかぶって、第1球、投げました」。そんなラジオで聞くようなシーンはない。「高め、お願いします!」。打者のそんなかけ声から始まる、不思議なスポーツだった。(つづく)

【竹内智信】