今夏の高校野球新潟大会は、新潟が4強入りして大きな盛り上がりを見せた。同校OBのNHK「ニュースウオッチ9」前キャスター・大越健介(54=NHK記者主幹)は、母校の快進撃に心躍らせた1人だ。自身は右オーバースローのエースとして79年の3年夏に県8強入り。準々決勝で、優勝校の長岡に2―12の5回コールドで大敗して甲子園の夢を砕かれた。捕手だった78年夏は県ベスト4。77年秋と79年春は県準優勝と、高校在学中は上位常連校でプレーした大越が高校野球を熱く語る。

 今夏は新潟OBたちが、ちょっぴりザワついた。母校野球部の県大会での快進撃に心臓の鼓動を高鳴らせながら注目した。準決勝進出で、その歩みは止まったものの4強入りは30年ぶりの快挙。野球部創部1894年(明27)の古参校で、県内随一の進学校が甲子園初出場へ届きそうなところまで迫った。「勝ち進むうちに同期たちも、だんだん騒がしくなってきた」と大越は夏を振り返る。当時はメジャーリーグの取材で米国に滞在していたが、同期とのメール交換などで後輩たちの活躍はチェックしていた。

 「高校野球には必ず、感動させてくれるものがある。50歳を過ぎたオヤジになっても、甲子園で見る高校生たちが、年上のお兄ちゃんに見えるときがある。自分が、甲子園にあこがれていた少年に戻っている、ということだと思う」

 そのど真ん中の高校球児だった3年の夏は、エースとして甲子園に挑んだ。準々決勝までの4試合は34イニングを1人で投げ抜き、2失点1四球。抜群の制球力で8強まで駆け上がった。8―0で7回コールド勝ちした4回戦の三条戦は被安打1の無四球投球だった。「自分の中では出来過ぎではないか、という不安がどこか頭の中にあった」。そんな思いを内面に抱えて同年夏の優勝校・長岡との準々決勝を迎えた。

 大越が投手として自信を得たのは準優勝した79年春の準決勝。その相手が、長岡だった。78年夏は強肩の2年生捕手として4強入りに貢献し、同年秋に投手に転向。1年のときからフリー打撃の投手を任されてきたが、打者にはやさしいボールを投げてきた。「打たれる球を投げていた。打ちやすい球を投げる人から、打たれない投手への脱皮が難しかった」。そんなテーマを春の長岡戦でクリアした。看板の打線を相手に6安打、5―2で勝ち「抑えた」という手応えをつかんでいた。

 しかし、あっけなく3年の夏は終わった。準々決勝は、12安打を浴びて12失点。2―12の5回コールド負けだった。2回までは大越の二塁打などで2―1とリードしていたが、一気に押し切られた。「気がつくと、コールド負け。こてんぱんにやられて、ぼうぜん自失になったのは初めての経験だった。2回以降は、どう点を取られたか、よく覚えていない」。

 実は、準々決勝前に大越の配球は読まれていた。長岡は、新潟の試合に「偵察部隊」を派遣してデータを取っていた。77年夏に長岡が甲子園に出場したときの主将・佐藤賢司(当時日体大生)らOB3人が、4回戦の三条戦で情報を収集。「コース、高低、球種を1球1球、スコアブックに記して配球を分析させた」と当時の長岡監督・柴山勲(72)は言う。「(偵察要員だった)佐藤さんが、都立国立高校の監督を務めていたときに、ウチの三男坊が(同校に)入学した」と大越は、不思議な縁を明かした。

 東大ではサイドスローにフォームを変えて闘志むき出しで投げる投手に変身した。「長岡戦で大事なことを教わった」と高3の敗退を糧に、東京6大学リーグで通算8勝27敗をマークした。国立大から初めて日米大学野球の代表にも選出された。「今は、新潟県にも日本文理など全国に強いと目されるチームがある。もう、僕らの頃のような井の中のかわずではない。新潟も一皮むけて甲子園で1勝してほしい」。後輩たちに託した言葉は「新潟球児の諸君 大海へ漕ぎ出せ ! 」だった。【涌井幹雄】

 ◆大越健介(おおこし・けんすけ)1961年(昭36)8月25日生まれ。54歳。新潟市立石山中から県立新潟高に進学。東大(文科類三類)入学後、野球部に入り、83年には日米大学野球の日本代表メンバーに史上初めて東大から選出された。その時の代表メンバーには明大の広沢克己(ヤクルト)、竹田光訓(大洋)、日大の和田豊(阪神)、法大の小早川毅彦(広島)らそうそうたる顔ぶれが並ぶ。卒業後の1985年(昭60)NHK入局。政治記者として自民党の分裂、小泉政権誕生などを取材。05年から4年間、ワシントン支局長を務めた。10年から「ニュースウオッチ9」のキャスターに就任。現NHK記者主幹。