人生は、どう転ぶか分からない。現在、日本ハムの関西エリアのスカウトを務める芝草宇宙氏(45)は87年、下位指名のドラフト6位で日本ハムへ入団した。プロ野球選手を目指し、埼玉県内の中学校の軟式野球部から、帝京へ入部した。一般入試だった。「小学校からソフトボール投げで、遠くに投げることには自信があった程度」。無名の選手だったが、志は高かったという。「練習が厳しいところ。練習量が圧倒的にずぬけているところ」。そんな両親の勧めで、名門高を軽い気持ちで選んだのだという。

 入部早々、面食らったそうだ。同期の新入部員は記憶では約50人。その半数ほどが、同じ投手だった。「仲間を見ていたら、やめたくなった」。当時の前田三夫監督は、強烈に厳しかった。高校野球も、そんな時代だった。「あまりにも練習がきつくて…。考える暇もなかった。耐えることに必死」。乗り切って迎えたラストサマーの3年夏。背筋痛を抱えながらノーヒットノーランなど、活躍した。その時点では甲子園に出場し、全国制覇。プロ野球選手になるという夢はすり替わり、どこか遠くへいっていたという。

 奇跡のように、不思議と土壇場で思いはかなう。夏の甲子園が終了後の国体。悩まされた背筋痛はなぜか解消され、フル稼働で優勝を果たした。その時、マークしていたのが日本ハムのスカウト陣。ごまかし、ごまかしだった甲子園では3回戦の横浜商(神奈川)戦で、自らの判断で「隠し球」も仕掛けて成功。9回の大ピンチをしのぎ1-0で完封勝ちした。準々決勝の関西(岡山)戦でも、荒業に出た。「抑えられなさそうな打者には、プレート板もボークと判定されてもおかしくないギリギリのところを踏んで、変な角度をつけた」。あらゆる手を使ったそうだ。

 今思えば、無鉄砲だった高い志。東北戦でのノーヒットノーラン、その後の進撃にもつながった背筋痛…。すべてが重なり合い、つながってプロへの道が開けた。成績など数字で単純に勝ち負けの根拠の解明、完全予測できないのが野球。芝草氏が体現した、3奪三振&8四死球での快挙が象徴しているようだった。【高山通史】