日本一のターニングポイントは7・18広島戦。負ければ首位に5ゲーム差の球宴折り返しとなる85年7月18日、岡山で行われた広島戦で阪神は岡田抜きで勝ち、3ゲーム差に迫った。

代役の和田が4安打を放ち、平田が日本記録の4犠打をマーク。元ニッカントラ番で元大阪・和泉市長の井坂善行氏は、「あの試合がVを引き寄せた」と振り返り、令和の矢野阪神の前半戦ターニングポイントを探った。

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岡山県営野球場。85年当時、阪神は年に数回主催試合を行い、広島も主催試合を開催する球場だった。

記者席はネット裏最上段にあるのだが、そこに行くにはスタンドの階段を上がっていかなければならない。記者席と一般席の間には警備員すらいない。いかにもローカルっぽい球場だったが、緑の公園に囲まれた記者席には涼しい風が通る風情ある地方球場だった。

しかし、85年7月18日、岡山県営球場は阪神にとっては重苦しい一戦を迎えていた。広島で16、17日に連敗。移動日なしで、この試合を終えると球宴休みに入る前半戦最後の試合だった。首位広島には4ゲーム差。敗れると首位が遠のく5差となる。しかも主砲の一角を占める岡田が負傷で欠場を余儀なくされた。

この日もスタメン二塁はルーキーの和田だった。17日の広島戦で2安打し、18日は7番二塁。三遊間に始まり、右前、中前、そして左前へ。まさに単打に徹する和田らしい広角打法の4安打で、3度もホームベースを踏んだ。

忘れてならないのが、和田の次を打つ8番平田のバントである。すべて和田を一塁に置いて、投手と一塁手の間に判で押したような職人芸の4犠打は、今なおプロ野球タイ記録として残る。

バース、掛布の連弾が「華」なら、和田、平田の攻撃は玄人好みのシブい攻めだった。結局、20安打、11点で広島に打ち勝ち、ゲーム差は2に縮まった。

今でも監督の吉田は、ポイントゲーム1試合を挙げるとなると、「そりゃ、球宴前の広島戦ですわ」と即答するほど、85年のターニングポイントは7月18日の広島戦だったのである。

あれから34年…令和の矢野阪神も球宴休みに入った。梅野のサイクル安打、矢野が涙した原口のサヨナラヒット、高山のサヨナラ満塁弾…。ポイントはいくつかあるだろうが、私の個人的見解を許してもらえるなら、7月3日のDeNA戦だ。4連敗で近本を外し、メンバーを大幅に組み替えた。2点差を追いつき、延長11回に勝ち越した。そして、その裏、無死一、三塁を守り切った壮絶な連敗脱出劇。V戦線に生き残ったターニングポイントと見るが、果たして-。

▽「オイッ、阪神はどうや。しっかり取材しとるか」。聞き慣れた声が背後から届いた。クルッと振り返ると、やはりこの人だった。85年の球宴、全パ監督を務める上田利治監督だった。

阪急担当だった80年オフ、西武か中日への監督就任が取り沙汰されていたウエさん。なぜか、その去就が決まるまで、私が「上田番」を命じられた。当時、兵庫県川西市にあった上田氏の自宅。私の住む大阪府和泉市からは2時間もかかる夜討ち朝駆けには、独身で若かった私にもキツい「上田番」だった。

ところが、結果は急転直下の阪急監督復帰。西武か中日かと取材を続けてきたのに、まさか自分の担当している阪急復帰とは…。

しかし、2年前の7月にお亡くなりになったウエさんには、よく野球を教えていただいた。私に声をかけてくれたのが、85年球宴第1戦が行われた神宮球場の関係者通路。「もうすぐ落ちていきますよ」と報告した私に、「いや、最後広島に勝ったのは大きいで」と分析した。その理由は「追われる広島に重い1敗」。やはり、知将の分析こそ、重いものだった。

◆85年阪神の犠打 チーム全体で積み重ねた141犠打は、55年阪急(現オリックス)と並び当時のプロ野球記録となった。7月18日広島戦では、平田4犠打に加え北村も1犠打し、計5犠打。これは現在も残る球団1試合最多タイ記録だ。なお85年に1個でも犠打を記録した試合で阪神は、56勝25敗6分けで勝率6割9分1厘。犠打のなかった試合では18勝24敗1分け、4割2分9厘。219本塁打を放った強力打線は、堅実な送りバントという隠れた武器を併せ持っていた。