プロ野球の大洋、ヤクルトで監督を務めた関根潤三氏が死去したことが9日、分かった。93歳。

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紳士然とした、好々爺(や)イメージと反対に、短気な「江戸っ子」(東京・巣鴨出身)だった。

四球連発で自滅気味にサヨナラ負けを喫した投手には、試合後、クラブハウスでのすれ違いざまに無言で平手が飛んだ。エースが早期降板し、スタンドから「お疲れさ~ん」の声がかかると、試合後にクラブハウスに引き揚げる途中、立ち止まる。フライパンを手にする名物応援団長に「何が、お疲れだ。ダメな時はダメだろう。そういうのが選手を甘やかすんだ」とフェンス越しに意見した。

表では見せないが、思った事は口にしなければ気が済まない。プロデビューは1950年(昭25)。近鉄パールスの投手兼一塁手だった。先発ローテの一角を守りながら勝ち星がつかない。9月下旬になっても3勝10敗と黒星が大きく先行。「打線の援護がない。打線を何とかしてくれ」と藤田省三監督に詰め寄った。新人が、だ。監督に「じゃあ自分で打って試合を決めろ」の捨てゼリフを吐かせた。9月30日西鉄戦(福岡・春日原)。5番一塁で先発出場すると5打数3安打でチームを勝利に導いた。「若かったからねえ。よく、あんなこと言えたよ。でも言った以上、結果を出さないと、とあの試合の打席は必死だったよ」と好々爺の笑顔で当時を振り返った。

ただ怒りをぶつけっ放しではない。80年代、応援団は外野席ではなく、ベンチ上方の内野席に陣取った。試合後は同じ江戸っ子の岡田応援団長と何度も大声を応酬させたものの、試合前練習中、オフのパーティーの席ではにこやかに談笑し、肩をたたき合った。平手を飛ばした投手を遠征先のホテル自室に呼び、コーヒー1杯で3時間でも野球論を交わした。

「チーム作り? スターが欲しいね。マスコミの注目が上がれば周囲の選手の意識も変わるからね」。ヤクルト監督1年目の5月に現役メジャー3番打者ボブ・ホーナーを獲得。オフのドラフトで長嶋一茂が入団した。狙い通り、チーム注目度は急上昇。広沢克己、池山隆寛が30本塁打を放つようになり、伊東昭光が最多勝を獲得。巨人にも勝ち越した。連続最下位のチームは4、5、4位と浮上のきっかけをつかんだ。が、契約満了で3年で監督退任。「チームをよろしく頼むね」。寂しそうだった、あの顔は忘れられない。【87年ヤクルト担当=井元秀治】