日刊スポーツは2021年も大型連載「監督」をお届けします。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。ソフトバンクの前身、南海ホークスで通算1773勝を挙げて黄金期を築いたプロ野球史上最多勝監督の鶴岡一人氏(享年83)。「グラウンドにゼニが落ちている」と名言を残した“親分”の指導者像に迫ります。

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南海ホークスは、ダイエー、ソフトバンクと親会社が変遷したが、ホークスの栄光と歴史を彩った第一人者は鶴岡だろう。戦後の1946年(昭21)から68年に監督を退くまでの23年間で、11度のリーグ優勝、2度の日本一に輝いた。

ユニホームを脱いだ後もNHK解説者として南海を見守った。後任監督に就いた野村克也は阪神からトレード移籍の江夏豊のリリーフ転向を成功させるなど卓越した野球を展開。だが77年に公私混同の私生活を指摘されて解任に追い込まれる。

同年10月5日、大阪市北区のロイヤルホテルで、南海ホークスを解任された野村克也の記者会見が開かれた。9月28日に大阪市内の東洋ホテルで通告を受けて以来、籠城を続けた野村の発言に会場はざわついた。

「就任以来、皆様にはご迷惑を掛けたおわびをいたします。この1週間、私なりに考えてきましたが、鶴岡元老の圧力で吹き飛ばされたと思う。スポーツの世界に“政治”があるとは…。私はそういうものに疎く、気がついたときには遅かった」

会見を取材した元NHK報道部チーフディレクターで、スポーツ班に所属した毛利泰子は当時を鮮明に覚えていた。毛利は前回の東京オリンピック(五輪)を最前線で取材し、プロ野球のメディア史の中では知る人ぞ知る人物。鶴岡から最も信頼されていた存在だった。

「会見を聞いて腰を抜かしそうになりました。鶴岡さんの人間性を知っていたので、背後で監督の解任に動くなどあり得なかったからです。すぐに広島カンツリー倶楽部の八本松コースでゴルフに興じていた鶴岡さんの元に電話を入れ、ラウンドから上がってきたら至急NHKまで連絡をくださいとお伝えして切ったのです」

現場にいた毛利はNHK大阪放送局のデスクだった片倉道夫に「間違ったことをニュースに流すわけにはいかないので原稿に解任とは書けません」と現場から説明の電話を入れた。

その日の鶴岡は、広島・呉で大之木建設を営む大之木一雄の自宅に宿泊している。翌朝、呉駅まで新聞を買いに走ったのが息子で現在、代表取締役会長の雄次郎だ。当時32歳だった雄次郎は「おじちゃん」と呼んだ鶴岡の表情を忘れていない。

「新聞に目を通した鶴岡さんは驚いてました。(野村氏が)とんでもないことを言ってるなといった様子で信じられない、まさかといった感じでした」

実は、今まで表面化していない鶴岡の真正直な気持ちを裏付ける行動が隠されていた。NHKの会社にいた毛利は広島にいた本人から電話を受けている。

「鶴岡さんは『ばかたれ。おれがそんなことをするわけはないやろ』とおっしゃった。そしていろいろ話した後で『NHKに迷惑が掛かるから解説者を辞めさせてもらう』と言い出したのです。『そんなことおっしゃらないでください』と言いました。その足で広島から大阪のNHKにいらしたんです」

鶴岡がうそをついているなら、NHK解説者を退く理由はない。選手を公平に使った“親分”の名がすたると思ったか、鶴岡は大阪に向かう電車に乗り込んだ。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆鶴岡一人(つるおか・かずと)1916年(大5)7月27日生まれ、広島県出身。46~58年の登録名は山本一人。広島商では31年春の甲子園で優勝。法大を経て39年南海入団。同年10本塁打でタイトル獲得。応召後の46年に選手兼任監督として復帰し、52年に現役は引退。選手では実働8年、754試合、790安打、61本塁打、467打点、143盗塁、打率2割9分5厘。現役時代は173センチ、68キロ。右投げ右打ち。65年野球殿堂入り。監督としては65年限りでいったん退任したが、後任監督の蔭山和夫氏の急死に伴い復帰し68年まで務めた。監督通算1773勝はプロ野球最多。00年3月7日、心不全のため83歳で死去。

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