日刊スポーツは2021年も大型連載「監督」をお届けします。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。ソフトバンクの前身、南海ホークスで通算1773勝を挙げて黄金期を築いたプロ野球史上最多勝監督の鶴岡一人氏(享年83)。「グラウンドにゼニが落ちている」と名言を残した“親分”の指導者像に迫ります。

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5度目の挑戦で巨人との日本シリーズ制覇に王手をかけたが、時計の針を戻す。打倒巨人に執念を燃やした鶴岡の前に立ちはだかったのは、博多を本拠にする西鉄ライオンズだ。1958年(昭33)まで名将三原脩が率いる個性派チームが3年連続で逃げ切った。

“野武士軍団”といわれ、大下弘、中西太、豊田泰光、関口清治らで大型打線を組んだ。大分・別府緑丘高からプロ入りしたエース稲尾和久もいた。「南海-西鉄戦」は看板カードだった。

鶴岡は元門司鉄道管理局監督で、球界初の専属スカウトに招いた石川正二を通じ、高校2年だった無名投手のもとを訪れている。稲尾家には毎月南海から現金封筒が届いたが、地元九州の西鉄に入団した。

生前の野村克也は「中心なき組織は機能しない。エースはチームの中心」と持論を展開した。「対戦したなかで一番すごかったのは稲尾。おれが受けたなかで最高のピッチャーは杉浦だ」ともいった。

巨人との日本シリーズにことごとく敗れた南海だが、それまで4度の日本一決戦と違ったのは、杉浦忠という絶対的エースが存在したことだ。59年は稲尾が30勝すれば、杉浦は38勝で上回った。

日本シリーズを控えた鶴岡は前代未聞の“奇策”にでる。最下位近鉄に大差をつけてリーグ優勝を遂げたのは10月4日。レギュラーシーズン終了は10月20日だから、巨人との戦いまで「中3日」だった。

打倒巨人を前にした南海は、臨戦態勢を整えるどころか、チーム全員で旅行に出掛けた。行き先は和歌山県の南紀白浜温泉。今も観光客でにぎわうスポットに1泊旅行に繰り出した。

テスト生からレギュラーの座をつかんだ広瀬叔功は今でも親分の話題になると熱くなった。55年に広島・大竹高からプロ入りした際は投手だが、右肘を痛めて野手に転向、ショートを守った。

「シリーズ合宿? いやいや。そんなもんじゃないよ。ミーティングなんてなにもなかった。だって、どんちゃん騒ぎよ。楽しい1泊旅行だった。飲んで、歌って、踊ってな」

今まで負け続けたライバル巨人が相手なら、監督はなおさらチームを引き締めるだろう。「人が2倍やってるなら3倍やれ」。それが鶴岡イズムのはずだった。それをあえて緩めた意図はどこにあったのか。

広瀬の通算596盗塁は世界の福本豊に次ぐ歴代2位。同一シーズン連続盗塁成功「31」は、19年にヤクルト山田哲人に抜かれるまでプロ野球記録だった。日本シリーズでは「3番遊撃」でフル出場した。

「わしらは鶴岡さんが怖くて口もきけんかった。でも親分がみんなの前で酒に酔ってはしゃいだ。今思えばわざとだったかもしれんな。あの親分があんなふうにバカになってふるまうなんてありえんもんな。でも普段見ることのない監督の姿に驚いたし、盛り上がった。チームがよしっいくぞ! と締まったんじゃろうな」

今ではとても考えられない日本シリーズ直前の大宴会。南海は一気呵成(かせい)に巨人に3タテを食らわせた。 【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆鶴岡一人(つるおか・かずと)1916年(大5)7月27日生まれ、広島県出身。46~58年の登録名は山本一人。広島商では31年春の甲子園で優勝。法大を経て39年南海入団。同年10本塁打でタイトル獲得。応召後の46年に選手兼任監督として復帰し、52年に現役は引退。選手では実働8年、754試合、790安打、61本塁打、467打点、143盗塁、打率2割9分5厘。現役時代は173センチ、68キロ。右投げ右打ち。65年野球殿堂入り。監督としては65年限りでいったん退任したが、後任監督の蔭山和夫氏の急死に伴い復帰し68年まで務めた。監督通算1773勝はプロ野球最多。00年3月7日、心不全のため83歳で死去。

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