日刊スポーツは2021年も大型連載「監督」をお届けします。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。ソフトバンクの前身、南海ホークスで通算1773勝を挙げて黄金期を築いたプロ野球史上最多勝監督の鶴岡一人氏(享年83)。「グラウンドにゼニが落ちている」と名言を残した“親分”の指導者像に迫ります。

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日本一まであと1つになった第4戦のマウンドに送り込んだのは、またしても杉浦忠だ。初戦から4戦連続登板。すでに限界を超えていたが、鶴岡はエースにこだわった。

鶴岡の長男、山本泰はこの取材を続けていた20年8月11日、腹部大動脈瘤(りゅう)で急逝した。PL学園監督として春夏合わせて5度の甲子園出場。1978年(昭53)の夏には初優勝に導いた。

法大監督も務めた生前の山本は、約束した場所にスカウトだったマリナーズのジャンパーを着込んで現れた。取材のなかでは、父親に杉浦を4連投させた理由をただしたことにも触れている。

「オヤジにしたら巨人に勝つこと以外なにもなかったと思います。杉浦さんを投げさせたことに『巨人は億万長者のすごい選手ばかり。スキをみせたら絶対負ける。勝てるときに勝っとかなあかん』と話していましたね」

苦汁をのまされた過去もよみがえった。56年に7・5ゲーム差、58年は11ゲーム差をつけて首位だったが、西鉄に逆転優勝を許した。前回55年の巨人との日本シリーズは王手をかけながら3連敗で敗れていた。

3番で遊撃手の広瀬叔功は「えっ、またスギがいくの? と思った」という。3回に杉山光平が先制二塁打、7回に岡本伊三美、寺田陽介、杉浦らの集中打で2点を加点した。

雨天順延で休養日を得た杉浦は中盤に立ち直って巨人を5安打完封した。4試合に登板し、32イニングを6失点(5自責)、防御率1・41。計436球。中指のマメをつぶし、血染めの熱投だった。

巨人を率いた水原茂はエース藤田元司を初戦に温存し、第2戦に先発起用した戦術が裏目にでた。鶴岡が手綱を緩めることはなかった。巨人は4番長嶋以外はオーダーを替えたが、南海は打線を固定した。

そして、ついに巨人を倒して頂点に立った。南海ホークス史上初の日本一。杉浦の4連投4連勝は奇跡だ。データを駆使し、兵を信じて、選手起用の妙をみせた、まさに“鶴岡マジック”だった。

日本一になったチームは夜行列車で帰阪。10月31日には「御堂筋パレード」が実現した。宿願を遂げた鶴岡のたっての希望だ。大阪府警は反対したが、市民、マスコミの待望論が押し切った。

午前11時から大阪球場から堺筋を北上し、大阪府庁、大阪市役所を回って御堂筋を南下。大阪府警の発表によると20万人以上のファンが熱狂したという。

キャプテンだった岡本伊三美は、当日パレードに出発する前、大阪球場のロッカー室で鶴岡から打ち明けられた一言を覚えていた。

「伊三美、だれにも言うなよ…」

鶴岡は1957年3月6日に先妻文子を胃がんで亡くしていた。33歳の若さだった。パレードのスタート直前、一周忌を済ませた後で再婚した一子から位牌(いはい)を手渡された。

それをふところに忍ばせて先頭車に乗り込んだ。イチョウが色づいた沿道は人で埋め尽くされ、歓声が起き、紙吹雪が舞った。「涙の御堂筋パレード」。それは男の花道だった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆鶴岡一人(つるおか・かずと)1916年(大5)7月27日生まれ、広島県出身。46~58年の登録名は山本一人。広島商では31年春の甲子園で優勝。法大を経て39年南海入団。同年10本塁打でタイトル獲得。応召後の46年に選手兼任監督として復帰し、52年に現役は引退。選手では実働8年、754試合、790安打、61本塁打、467打点、143盗塁、打率2割9分5厘。現役時代は173センチ、68キロ。右投げ右打ち。65年野球殿堂入り。監督としては65年限りでいったん退任したが、後任監督の蔭山和夫氏の急死に伴い復帰し68年まで務めた。監督通算1773勝はプロ野球最多。00年3月7日、心不全のため83歳で死去。

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