日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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1985年(昭60)、日航機墜落から一夜明けの8月13日は、後楽園球場での巨人戦だった。ホテル内のミーティングで、球団代表の岡崎義人の事情説明に続き、吉田が「こういう日だから、何が何でも勝たなあかん」と訴えた。

だがチームを奮い立たせた当の本人が「何をどうしていいか、わからなかった」と内心は取り乱していた。監督はチームを映す鏡。トップの動揺は、巨人に3連敗、広島に連敗、大洋にも負けて、チーム6連敗につながった。

球団社長だった中埜肇(なかの・はじむ)の死亡が確認されたのは、4日後の16日夜。守備・走塁コーチの一枝修平は「珍しい名前やから、人違いではないかと思ったけど…」と願ったが淡い期待も届かなかった。

本社取締役で、西梅田開発室長の三好一彦は「中埜専務は太っ腹な人格者で、吉田監督らの現場を信頼されていた」と振り返る。吉田も「『監督の言うことは何でもしますから』と約束してくれていたのに…」と悔やんだ。

「外から焦りとか、空回りとか指摘されたが、どうやってチームをまとめたかは記憶にないです。でも中埜社長に報いるのは勝つことだと、それだけを自分自身に言い聞かせた覚えだけはあります」

8月18日。敵地での広島戦を前に宿舎「きっかわ観光ホテル」で選手だけの緊急決起集会が開催された。この年の選手会長は、84年まで務めた掛布雅之から指名されたプロ6年目の27歳、岡田彰布だった。

「いつも8月のロードで失速して尻すぼみになる感じだったし、広島球場はなんかいつもやられるイメージだった。勝たなあかんと思った。ベテランにも何かいい打開策がないか、みんなでどうしたらいいかを話し合った」

その夜も敗れ、移動日を挟んで20日の大洋戦(横浜)も勝てなかった。だが川藤幸三が「焦ってもしゃあない。自分たちの力を信じて戦おう」と鼓舞するなど、決起集会が立ち上がる契機になった。

弔い星で連敗を脱出したのは21日の大洋戦。同点の4回、代打長崎啓二(のちに慶一)が勝ち越し打で早いイニングで繰り出した積極采配が的中する。3番手につぎ込んだ福間納が6勝目、8、9回は中西清起が締めた。

吉田は「ほんま握手するのは久しぶりやなぁ~」と水道の蛇口をひねってゴクリと飲んだ。選手が決起集会を開いたことを知ったのは、広島から横浜に移動した後だった。

「ぼくは後で知ったんですが、うれしかった。自分も気持ちだけが先走って、浮足立っていた。『一丸』、『挑戦』と言い続けましたから、岡田のリーダーシップには助けられました」

首位広島、巨人に0・5差で肉薄。「ぼくらは(順位を)気にしてませんわ」。“吉田節”も息を吹き返した。【寺尾博和編集委員】

(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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