マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。プロ通算23年間で215勝177敗、33セーブ。右肘の手術を乗り越え、40歳まで現役を続けた偉大な右腕の涙の引退試合を、1990年10月14日付の日刊スポーツ紙面で振り返る。(所属、年齢など当時)

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ロッテ村田兆治(40)の23年間のラスト登板、604試合、5万2697球目はフォークボールだった。西武との最終戦(川崎球場)は雨の中、2万2000人の観衆がマサカリ投法を見た。年下のライバル清原を打ち取り、ホームランキングのデストラーデを三振に斬り、5回完封。40歳代投手として41年ぶりの10勝という快記録を残してマウンドを去った。

 

降りしきる雨と涙が混じり合う。モットーの「完全燃焼」を物語るそのしずくが、23年間の年輪を刻んだ顔ににじんでいた。村田は泣いた。どんな節目の白星にも涙を流さなかった男が、右手でそっとまぶたをぬぐう。一塁側ベンチ前で、ナインの手で4度宙に舞った。悔いなき野球人生のフィナーレに、超人投手は感無量だった。

 

「いよいよマウンドに立てなくなるんだな、という気持ちだった。思い残すことはありません」。西武相手に5回を散発4安打完封。40歳では史上二人目の2ケタ勝利というハクをつけ、現役最多勝男は現役生活に別れを告げた。「喜びも悲しみもすべて、このマウンドにありました」。場内マイクで、2万2000人の観衆にあいさつ。川崎球場での通算50勝目とともに、球界からひとつの大きな歴史が幕を閉じた。

 

「人生先発完投」。引退を決意した夏場以降、サイン色紙に必ず書き添えてきた。「プロとして、最後まで恥ずかしくない終わり方をすべきだ」。この信念のもと、村田は自らを奮い立たせた。通算600試合登板を1-0の完封で飾った8月24日の対西武戦(西武)。そしてこの日の肌寒さを吹き飛ばす熱投は、手を抜くことを知らない硬骨漢の何よりの象徴だった。

 

だからこそ、ルーキーのような初々しさで臨んだサヨナラ登板。雨で流れた9月30日(西武戦)の仕切り直しにも、胸が張り裂けんばかりの緊張感に襲われた。午前8時50分、東京・成城の自宅を出る際「今日も雨だな」と厳しい表情でひと言。試合前は、両ヒザが震え、どうきが止まらなかった。だが、その重圧をもプラスに転じ、全盛時並みの好投だ。

 

初回から、140キロ台の速球をかつての女房役・袴田のミットに投げ込んだ。ぬかるんだマウンドに右足をめり込ませながら、最後のマサカリ投法でレオ打線を詰まらせる。2回には、本塁打キングのデストラーデをこの日最速の145キロで空振り三振。もちろん、楽なコンディションではなかった。4回、突然、右足がケイレンしてしまった。「足場も悪く、踏ん張れずにバランスが崩れたんだ」。それでもこの回、無死二塁の危機を切り抜け、5回も1死一、三塁で併殺。この日の83球目、通算5万2697球目、現役最後の1球を宝刀・フォークボールで締めくくると、天も味方しての降雨コールドゲームとなった。

 

今でも右ヒジに残る長さ7センチの傷跡。山あり谷ありのドラマを残し、偉大な星は消えた。今季、自信を持って投げた速球を、実績のない若手打者にしばしば打ち込まれた。「先発やリリーフで失敗しても、取り戻す(雪辱する)ことができなくなり、責任を取ろうという気持ちになった」。試合後、引退決意のいきさつを口にした表情に、初めて寂しさが漂っていた。

 

正式引退発表を「全日程終了後に」と固辞してきた律義さは、周囲に対しても忘れていなかった。4回表が終わり、西武の4番手・石井が登板する時になって、一塁の中村塁審に「マウンドに砂を入れて下さい」と申し入れている。選手会などから贈られた花束の一つを、やはり現役引退する袴田にそっと手渡した。温かい人柄と実績を残しての引退劇。一度は死んだ男ならではだろう。7年前、右ヒジ大手術をした際、通算156勝(31S)で終わるかに見えた野球人生も、その後この日までさらに59勝(2S)。たゆまぬ節制と強じんな精神力がもたらせた奇跡の復活史だ。

 

スコアラーが記したスコアカードをコピーし、初めて村田は持ち帰った。23年間の思い出が凝縮されたような「記念品」で締めくくったサヨナラ登板。空模様とは裏腹な秋晴れのような心境で、第二の人生(ネット裏から評論家活動)も「先発完投」を目指すことだろう。【岩間】

(1990年10月14日付、日刊スポーツ紙面より)