阪神ドラフト1位の青学大、下村海翔投手(21)は高校で初めて親元を離れた。

進学先は甲子園でも常連の福岡・九州国際大付。当時監督の楠城徹氏(72)のもと、全国から実績のある選手たちが集まる環境に飛び込んだ。それでも1年の秋季大会で公式戦デビューするなど順調に台頭。そして転機となる晩秋を迎えた。ある練習試合。1イニング程度を投げ、四球を出しながらも「点はそんなに取られていなかった」。だが試合後に指揮官に呼ばれて、告げられた。

「ピッチング禁止や、ネットスローからやり直せ」

言葉の意味を全て理解することはできなかったが、「必死だった」。自ら時間を見つけ、ネットスローを繰り返した。

楠城氏 いい球を投げようとする意識が強いので、状態が突っ込んで腕が遅れ気味でした。それを改善しないと故障につながったりする。修正して、そこから実戦にという感じでした。

腕の振りが改善されるとブルペン入りの許可が出た。そこからマンツーマン指導が始まった。当時、下村が主に武器としていた球種は直球とカーブ。スライダーも持っていたが、緩く大きい曲がりで、制球もままならなかった。指揮官からは「小さく速く」と助言を受け、これがのちに勝負球となる「カットボール」に転じていく。

「何が抑えられるボールなのかも分かっていなかった」(下村)。がむしゃらに教えを反復。そして監督から合格をもらって登板した年内終盤の練習試合だった。相手は秋季大会で敗れたチームだったが、手に入れた新球種を武器に見事完封。「カットボール」に手応えをつかんだ瞬間だった。フォーム修正で抜け球も減り、制球力もアップ。大きな自信につながり、小学生からの夢の輪郭が浮かび上がった。

「プロにいけるかも」

そこからプロを意識した日々が始まった。楠城氏は西武や楽天などで編成部長やスカウト部長なども歴任した「眼力」の持ち主。「立ち姿」1つから指導を受け、下村も1つ1つを克明にメモした。「良いピッチャーは確かに共通している。そういうところも教えてもらって、すごく感謝しています」

3年時には最速149キロ右腕に成長。ドラフト候補と注目されるまでになった。最後の夏は福岡大会準決勝で敗れ、進路は大学進学か、プロ挑戦の2択になった。当初はプロ入りを軸に考えていたが、決断を後押ししたのは楠城氏だった。

「大学生を抑えられないようじゃ、プロでは絶対抑えられないぞ」

プロの世界で勝負するにあたり、強い自信と覚悟がなかったことにも気づいた瞬間でもあった。「自信をつけてプロに行けるように」。さらなる成長を誓い、東都の名門、青学大に進んだ。【波部俊之介】(つづく)

【連載第1回】父の言葉で「決断」

【連載第2回】恩師が見た「覚悟」

【連載第3回】クレバーさ「原点」