阪神ドラフト1位の青学大・下村海翔投手(21)は中学時代、宝塚ボーイズで本格的に投手の道を歩み始めた。過去にオリックスでイチロー氏(50)の専属打撃投手も務めた奥村幸治監督(51)は「フォームが良かった。体は特別大きくなかったけど、体の使い方がうまかった」と振り返る。

「考える力」も中学生離れしていた。同学年の捕手、島上眞綾(まさや)さん(22)は「海翔は『自分で考えてやろう』というのが、ピッチングの中ですごくあった」と明かす。ブルペン投球は後ろで奥村監督が見守ることが多い。下村はイチロー氏らと対峙(たいじ)するなど、投手経験が豊富な指揮官に「自分の武器は何か?」など、積極的に質問をぶつけていった。

「真っすぐを、どうやって速く見せるかとか、どういうカーブでカウントを取るかみたいなことも聞いていました」(島上さん)

当時の持ち球は直球とカーブの2球種。学年に5人ほどいた投手陣の中でも、球質はピカイチだったという。一方で、回転がきれいで素直な球質ゆえに、バットの芯に当たると飛距離が出てしまう悩みがあった。そこでフォームの改良やカーブの使い方を工夫し、課題克服に着手。投球を止め「今の球どう?」と島上さんに質問するなど試行錯誤した。監督や捕手と重ねたブラッシュアップが、クレバー投球の原点となった。

ライバルとの切磋琢磨(せっさたくま)も成長につながった。中学3年時には、同い年の伊藤大征投手(現早大4年)とダブルエース体制を構築。チームを中学硬式野球の全国大会、ジャイアンツカップ出場に導いた。「球速は負けたくない感じで、伊藤が135キロ出したら、海翔もそこを目指してやっている感じでした」(島上さん)

当時から身長は小柄だったというが、中学生にして最速は135キロにアップ。「負けず嫌い」な性格を前面に押し出し、体格を言い訳にしない武器を身につけた。

「やるからには(高校の)強豪校に入れるように」と入団した宝塚ボーイズ。兵庫県外で活躍する先輩たちに続き、進学先は福岡の九州国際大付を選んだ。初めて親元を離れることには多少の不安を抱きながらも「甲子園に行きたい思い」が勝った。夢を追い、勝負をかけた野球留学。その地で、投手として最大の武器を手に入れることになる。【波部俊之介】(つづく)

【連載第1回】父の言葉で「決断」

【連載第2回】恩師が見た「覚悟」