10年前に相撲担当に戻った時のこと。知った力士はもう数人で、親方衆に「何しにきたの?」とけげんな顔をされたり、「ひやかしは帰って」とひやかされた。そんな中で背後から声を掛けられた。「お元気そうで。だいぶお年を召されましたね」。境川親方(元小結両国)だった。

日大4年時から取材した。新入生にのちの久島海の久島がいた。末は横綱と言われた逸材。親方は当時主将としてボディーガード隊長のようで、いつもピリピリ。道場に行っても「取材はダメです」としばしば拒否された。

長崎の同郷の縁もあり、元横綱佐田の山の出羽海部屋に入門した。プロでも口数は少なく、接点は少なかった。それがほほ笑みながらあいさつされて、ちょっとびっくりした。学生時代から顔見知りの縁が、十数年ぶりの懐かしい再会になった。

こわもてで威圧感がある。若手記者にはつっけんどんで怖がられていた。こちらは部屋へ行けば「大したもんはありませんが」と言いつつ、ちゃんこを振る舞ってくれた。飲み屋で会うと、ボトルの差し入れ合いになってしまった。

テレビから力士が川に飛び込んだ女性を助けたというニュースが耳に入った。ピンと来た。画面に目をやると境川部屋とすぐに分かった。親方が助けを求める声を聞いたのが始まりにもうなずけた。

サイパンへの部屋旅行で、バンザイクリフにある慰霊碑が落書きされているのを見て激怒。日程を変えて洗剤とブラシを買い込み、弟子と一緒に汗だくで磨き上げた。

元前頭豊響を下関の自宅へ勧誘に行ったが母親に悪態をついた。「親にそんな口をきくヤツは、こっちから願い下げだ」と破談になった。職を転々とした後に豊響が頭を下げると「命を懸けて来い」と受け入れた。

6年前には豪栄道が部屋から初の大関誕生となった。昇進伝達式での口上は「大和魂を貫く」というもの。親方夫妻と考えたと言ったが、あの親方にして、この弟子ありと言える口上だった。

元久島海の田子ノ浦親方が12年に急死した。プロでも同じ部屋で過ごした。高校生初のアマ横綱も、最高位は東前頭筆頭に終わった。境川親方は「三役にも上げられなかったことが一番悔しい」と話したものだ。

角界で一大勢力の日大勢はいずれも元監督の田中理事長の教え子だ。18年のアメリカンフットボール部問題では理事長独裁のガバナンスなどが問題視された。境川親方は以前から一線を画し、部屋に日大出身力士は同郷の對馬洋だけ。一方で角界を離れた大先輩の元横綱輪島さんとは、最後までつながりを持っていた。

誰でも一長一短あるものだが、境川親方は人望もあり、悪口を聞いたことがない。人命救助にも女性を気遣って多くは語らなかったという。筋の通ったおとこ気の塊のような親方である。【河合香】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)