大関貴景勝の優勝で幕を閉じた、1年納めの11月場所。久しぶりの大関優勝に盛り上がったが、他に奮闘した力士が多くいた。中でも、同場所で3年ぶりに三役に返り咲いた小結照ノ富士(29=伊勢ケ浜)は、千秋楽の本割で貴景勝に勝って決定戦に持ち込むなど、13勝と気を吐いた。

照ノ富士は両膝の負傷や内臓疾患に苦しみ、一時は序二段まで番付を落としたが、再入幕を果たした7月場所で復活優勝。ついには、返り咲きを目指す大関への足固めも作った。どん底からはい上がってきた照ノ富士の姿は、横綱昇進を目指していた3年前と比べて、周囲の目からまるで別人のように映る。

千秋楽を1敗の単独トップで迎えた17年春場所。連日、朝稽古時は上機嫌だった。当時の番付は大関。稽古取材に訪れた大勢の報道陣を前に「優勝すれば次が綱とり? もし今場所が優勝次点でも、次で優勝なら横綱に上がれる?」と、翌場所のことばかりを考えていた。決して目の前の一番をおろそかにしているわけではなかったが、他の場所に比べると明らかに浮足立っていた。

伊勢ケ浜部屋に転籍する前の間垣部屋時代から苦労を共にし、約5年間照ノ富士付け人を務めた元駿馬の中板秀二さん(38)は「何をやっても勝てる。何をしてても勝てる。自分を止める者はいないのか、という気持ちは正直ありました」と当時の照ノ富士の姿を振り返った。しかし、1差で追いかけられていた新横綱の稀勢の里に、本割と決定戦で敗れて支度部屋で涙。「綱とり」の言葉は一切、発さなかった。

転機は2場所後の17年名古屋場所。左膝半月板を損傷すると、内臓疾患などにも苦しみ休場が続き、1年半で序二段まで陥落した。その間に、兄弟子の元横綱日馬富士や元関脇安美錦(現安治川親方)らが引退。中板さんは「それから自分が引っ張らないといけないという自覚が芽生えていました。相撲に真摯(しんし)に取り組むようになりました」と振り返る。番付を落としている間に引退した先輩の姿に、奮い立つものがあった。

長期休場明けとなった19年春場所以降、照ノ富士は別人のようだった。目の前の一番への集中力は、負傷した3年前と大きく変わっていた。番付に関係なく土俵に上がれば一番一番を大切にし、大きなことを言うこともなくなった。どん底を味わっても腐ることなく、自分をしっかりと見つめ直したことが、ここまでの復活につながったに違いない。【佐々木隆史】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)