日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

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中学生の時、胃カメラを3回ものんだという。母子家庭で裕福ではなかった。同級生から「ボンビー(貧乏)」とからかわれ、服を脱がされ、殴られる。給食のおかずは取られ、貴重品は盗まれた。「おなかが痛くて病院に行ったら胃潰瘍。中学生でね。3回も」。2007年6月。3度目の世界挑戦を控えた内藤大助は都内のジムで、壮絶ないじめを振り返った。まだ世間的にはほぼ無名。はき古したジーンズが印象的だった。

いじめ克服でボクシングを始めた。独特の変則スタイルで世界挑戦のチャンスをつかんだが、世界の壁は厚い。当時のWBC世界フライ級王者は無敵といわれたタイのポンサクレック。02年4月、最初の挑戦は開始直後、わずか34秒で倒された。05年10月の2度目の挑戦は偶然のバッティングで右目上をカットし、7回負傷判定で敗れた。2度完敗した相手への3度目の挑戦。年齢的には下り坂を迎える32歳に、勝利を予想する声は皆無で、自分も想像すらできなかった。

現に、そのころ、話題を呼んでいた亀田兄弟の所属した協栄ジムは、内藤の負け前提で、亀田とポンサクレックの対戦交渉に入っている。年下の亀田兄弟からは「レベルが低い」「弱い」と見下された。王者ポンサクレック陣営も、対戦前から地元タイでの次なる防衛戦を計画。まるで、いじめられっ子だった中学時代のように、軽んじられ、ないがしろにされた。

そんな内藤の心情を思いやると、切なく、やり切れない思いが募った。だが、本人は「言わせておけばいい」とひるむことなく、一発逆転を信じた。冒頭のいじめの過去を明かした取材で、内藤は最後に「もう失うものはない。捨て身でKOを狙う」と言い切った。王座奪取に半信半疑でいた自分が恥ずかしくなるほどの迫力。「このままでは終わらない」との強い決意が伝わってきた。

当時、内藤は時給900円で週5回、レンタカー店でアルバイトしていた。喫茶店に勤める真弓夫人と合わせた月収は12万円。生活は苦しく、貯金も底をつく。真弓夫人とは「この試合が最後」と約束した。人生を懸けた大一番を前に、女子マラソンの高橋尚子を育てた故小出義雄氏の教え子の野木丈司トレーナーと契約。執念で30歳を超えた肉体を追い込んだ。

07年7月18日、東京・後楽園ホール。「負けたら引退」を覚悟した崖っぷちボクサーは鋭い眼光で入場。対照的に17連続防衛中で、内藤にも連勝中の王者ポンサクレックは笑顔を振りまきリングに上がった。ゴングが鳴る。観客のどよめきと歓声とともに、王者の余裕は消滅する。2回、内藤の右ストレートが顔面に入ると、動揺を隠せない。3回には左まぶたから出血。逆に内藤はスタミナ強化をいかし、激しい出入りで、得意の右強打を何度も顔面にたたき込んだ。判定3-0の完勝で世界王座を奪取した。

痛快な番狂わせの裏には、内藤の不屈の闘志と、王者の慢心があった。判定を聞いた内藤は右のほおをつねりながら「夢じゃないか」と号泣した。その後は5度の防衛に成功。独特のキャラクターと、亀田兄弟との対決も話題を集め、知名度を高めた。拳1つで人生が変わる。ボクシング、そしてスポーツの醍醐味(だいごみ)を味わった一戦だった。【田口潤】