第51代横綱の玉の海(本名・谷口正夫)は少年時代、柔道の強豪だった。1944年(昭19)2月5日、生まれたのは大阪。当時は米軍による本土空襲が、日増しに激しさを増していた。玉の海も戦火を逃れるため、1歳で愛知・豊田に疎開。県内の岡崎に移った後、小学4年からは蒲郡で育った。

大相撲では12年間、1度も休場がなかったが、意外にも小学生のころは病弱だった。蒲郡に引っ越した直後には、医者が「髄膜炎だろう」と言うほどの高熱を出した。2週間熱が引かず、母ハルヨはあちこちの神社に通ったが、快方に向かわなかった。4人兄弟の末っ子。あきらめかけたころ、突然「かあちゃん」と声を出した。「正夫! 1と2を足したらいくつだ」と聞くと「3じゃないか。そんなことも分からないの? バカだなあ」と言い返されたという。ハルヨは涙を流して喜んだ。それから正夫少年は、見違えるように元気になった。

蒲郡中に進むと、柔道部に入った。まじめな性格もあって、メキメキと頭角を現した。中学で1年先輩だった元前頭和晃(先代伊勢ケ浜親方)の杉浦敏朗が証言する。

和晃「朝は始業前から1人で受け身のけいこして、放課後は先輩が音を上げるまで乱取りをやめなかった。『強くなりたい』と練習に打ち込む姿勢は、相撲界に入ってからと同じだった。1年の夏には、上級生の誰よりも強くなっていましたね」

中学生には柔道有段資格試験はなかったが、正夫は特別に受験し、初段となった。2年になると、大将としてチームを愛知王者に導く。3年時には2段に昇段。敵なしだった「蒲郡の谷口」は、愛知県柔道界で名前を知らない人がいないほどになっていた。多くの勧誘の中から、県内屈指の柔道強豪校だった東海高への進学を決意。貧しかった谷口家にとって「授業料の特別免除」は好条件だった。

だが中学生活も残り3カ月となった59年1月、事情が変わった。正夫は新学期が始まってすぐ、校長室に呼ばれた。

「体格がよくて柔道が強い君の評判を聞いた人が、弟子にしたいと言っている。どうだ、考えてみないか」。

松井正一校長が紹介したのは、三役の常連だった二所ノ関部屋の幕内玉乃海だった。57年九州場所で15戦全勝で優勝したが、このころはすでに36歳で故障に悩まされていた。一方で引退後を見据えて全国にスカウト網を張り、次々と内弟子を獲得していた。そこで旧知の中で、蒲郡市内でかまぼこ屋を営んでいた竹内浅太郎が正夫を紹介。突然のスカウトとなった。

正夫はそれまで、相撲を取ったことがほとんどなかった。ましてや、春には東海高進学が決まっている。母のハルヨは大反対。しかし、玉乃海側もすんなりと引き下がらない。皇太子がご成婚し、伊勢湾台風で5000人を超す死者・不明者を出した59年。日本は、まだ貧しかった。松井校長は正夫にささやいた。

「柔道で身を立てるのもいい。でも、相撲取りになった方が出世が早いと思うよ。お母さんは女手ひとつで苦労して、君たちを育ててきた。相撲界で頑張って、お母さんを楽にしてあげたらどうだ?」。

15歳になったばかりの少年には効いた。のちに玉の海は「オレがいなくなれば、1人食べる口が減る。そしたらおふくろも楽になると思った」と振り返っている。親孝行を夢見た正夫は、大逆転の角界入りを決めた。(敬称略=つづく)【近間康隆】

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◆玉の海が入門したころの日本 中学3年だった1958年(昭33)は「岩戸景気」が始まった年。大卒初任給1万3467円で、はがき5円、テレビの普及率は約10%だった。平均寿命は男65歳、女69・6歳。厚生省が「栄養白書」の中で「日本人の4人に1人は栄養不足」と発表した。相撲は「栃若ブーム」で、長嶋茂雄が巨人入団。東京タワーや関門トンネルも完成した。翌59年はNHK教育、日本テレビ、フジテレビが次々と開局。少年マガジンや少年サンデーが創刊された。皇太子がご成婚し、64年東京五輪の開催が決定。高度成長時代の中で貧しさから脱却している最中だった。漫画や映画がヒットした「ALWAYS 三丁目の夕日」の設定も、このころ。