名曲やヒット曲の秘話を紹介する連載「歌っていいな」の第34回は、1978年(昭53)に発表された山口百恵さんの「いい日旅立ち」です。国鉄(現在JR)のキャンペーンソングだったことは有名ですが、歌のタイトルに、ある秘密が隠されていたことは、あまり知られていません。当時の制作過程を関係者の証言からたどります。

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「国鉄のキャンペーンソングを、ぜひ作って欲しい」。1977年(昭52)の初秋、百恵さんが所属していたソニーレコードに、広告代理店を通じて、国鉄から依頼があった。

百恵さんは当時、20歳を前に、森昌子さん、桜田淳子さんの、いわゆる「中3トリオ」で競い合っていた時期を卒業し、独自の道を歩み出していた。百恵さんを当時担当していたプロデューサーの酒井政利さんは「山口百恵さんを、美空ひばりさんに次ぐ国民的歌手に育てたいという意識が社内に芽生えていた時期で、国がスポンサーでもある国鉄の話は、最高のきっかけになると感じました」と振り返る。

ソニーは、この依頼を快諾したが、国鉄が男女どちらの歌手を求めるか分からず、女性なら百恵さん、男性なら浜田省吾さんの名前を挙げた。

国鉄はその7年前の70年に「ディスカバー・ジャパン」(日本美の再発見)をうたい文句に、国内旅行ブームを巻き起こすことに成功していた。ジェリー藤尾さんの名曲「遠くへ行きたい」がこのブームに拍車をかけ、同名タイトルの旅番組も高視聴率を得ていた。77年は、いわばその第2弾の企画で「今回は女性歌手でいきたい」という意向で百恵さんが抜てきされた。

しかし、当時の国鉄は、75年にストライキ権回復の闘争(スト権スト)が激化するなど揺れており、累積赤字も膨らんでいた。新キャンペーンソングには、イメージアップと、赤字減らしの目的もあったとされるが、それ以前に、曲の制作を発注し、テレビで大量に流すだけの広告予算はなかった。ソニーとしては、国鉄が企画を断念すれば、百恵さんの「国民的歌手構想」もつぶれてしまう。

すると国鉄は「キャンペーンソングの協賛」を、私企業に依頼した。車両造りなど密接な関係を持っていた「日立」と、元国鉄の社員や役員がいた「日本旅行」の2社がタイアップにつき、予算面をクリア。企画はゴーサインとなった。

制作にあたった酒井さんは「これで百恵さんは国民的歌手に一歩近づく」と2社の協賛に感謝し、タイトルに「日立」と「日本旅行」の社名を略した「日旅」を入れた「いい日旅立ち」とすることを決めた。そのタイトルで、谷村新司さんに「国鉄のイメージソングを作ってほしい」と作詞・作曲を依頼。歌詞には「あゝ 日本のどこかに 私を待ってる人がいる」など、国鉄色も反映された。

同曲は78年に、国鉄、日立、日本旅行がスポンサーとなって、それぞれ1カ月間テレビで流れた。百恵さんにとって、ハード路線と言われた「絶体絶命」と「美・サイレント」の間にある曲で、「地味」「時代錯誤」との手厳しい批判もあったが、年が明けると大ヒット。今も老若男女に愛され、名曲として歌い継がれている。

しかし、スポンサー名を巧みに織り込んだパズル的な曲名の発想は、その後も引き継がれた。女性デュオPUFFYのヒット曲「これが私の生きる道」は、漢字だけを抜き取れば「私生道」。同曲のタイアップ企業「資生堂」を織り込んでいる。【特別取材班】


※この記事は96年11月18日付の日刊スポーツに掲載されたものです。一部、加筆修正しました。連載「歌っていいな」は毎週日曜日に配信しています。