2日に慢性閉塞(へいそく)性肺疾患で亡くなった落語家桂歌丸さん(享年81)について、日本テレビ系「笑点」で長らく共演し、歌丸さんが会長を務めていた落語芸術協会(芸協)で会長代行を務める三遊亭小遊三(71)らが3日、都内の芸協で会見した。小遊三は、歌丸さんの体調不良により先月会長代行になったばかりだった。

 小遊三によると、歌丸さんは家族とごく一部の関係者に見守られて息を引き取った。安らかで、苦しまず、眠るようだったという。小遊三が最後に会った6月26日、歌丸さんは芸協の今後について、熱く語ったという。小遊三が「みんなで一丸となって協会の色を出してくれ、と。すごい迫力で、そんなに力まないで、と早々に退散しました」と振り返った。

 同30日までは会話もできたそうで、小遊三は「30日まで小言を言ってたみたい。最後の小言は、弟子に『俺が死にそうなのに、おめえたちは来ねえ』だった、と。1日に言葉が出なくなったようです」と、病床でもユーモアを忘れない歌丸さんだったとした。

 歌丸さんの最後の高座となった4月19日、同じく国立演芸場に出演していた弟弟子の桂米助(70)は「15日が私の誕生日だった。師匠は車いすに乗りながら、ケーキと花束でお祝いしてくれた。自分が苦しいのにお祝いしてくれた。情の厚い師匠だった」と振り返り、「ありがとうございました。これしかないです」と涙した。

 「笑点」の司会を引き継いだ春風亭昇太(58)は「かっこよくてすてきな師匠でした。落語をやるんだというものすごい意志があった。落語界の損失というだけになってはいけない。後に続く者が大事なんだと思います」と話した。歌丸さんの落語への取り組みについては、小遊三も「晩年、円朝ものに取り組む姿が強烈だった。よくこんなことできるな、と。やるだけでなく完璧にやる。まねできないこと。爆笑も取れて、長屋ばなし、こっけいばなしもやって、円朝ものもやる。思い出しただけですごい」。

 晩年は酸素吸入器が手放せず、高座でも必要だった。一番弟子の桂歌春(68)は「亡くなった後、呼吸器で鼻の頭がすりむけていた。『楽になりたい』と言うこともあった。全部から解放されて、師匠お疲れさまでしたという声を掛けました」と話した。

 通夜、葬儀は家族葬で行い、11日午後2時から横浜市港北区菊名2の1の5の妙蓮寺で、椎名家と芸協合同の告別式を行う。本名の椎名巌(しいな・いわお)として送り出したい、という家族の強い意向で、通夜・葬儀は家族葬にしたという。