映画監督の大林宣彦さんが10日午後7時23分、肺がんのため東京・世田谷の自宅で亡くなった。82歳だった。

新人女優を起用した作品で一世を風靡(ふうび)し、近年は反戦と平和を希求した映画作りを追求した。16年8月に肺がんで余命宣告を受け、闘病と並行して映画製作を続けたが、新型コロナウイルスの影響で公開延期となった「海辺の映画館-キネマの玉手箱」の公開日だった10日に力尽きた。葬儀・告別式は家族葬で執り行い、後日お別れ会を開く予定。

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「監督は映画が完成し、公開するまでは死ねない」というくちぐせは、かなわなかった。大林さんは「花筐/HANAGATAMI」撮影前の16年8月、ステージ4の肺がんで余命3カ月と宣告された。複数の関係者によると、投与した薬が体に合い撮影を乗り越えた。二人三脚で歩むプロデューサーの恭子夫人が闘病を支え「2000年生きる」と創作意欲は尽きなかった。会食で大好きな肉をおかわりし、酒を2人で1升近く飲んだこともあった。

その食欲が昨秋あたりから急激に落ち、食べものは大好きなぶどうなどの果物に限られた。今年に入り、新型コロナウイルス感染のリスクを避けるため通院せず医師の往診を受けていたが、3月末に腰にこれまでにない激しい痛みを感じ、体調が急変したという。

時代を切り開いた映画人生だった。製作した自主映画が評価され、60年代にCMディレクターになり3000本超のCMを製作。映像を芸術にまで高めたと評価され、77年に「HOUSE」で商業映画デビュー。助監督の経験もない自主映画製作者が、監督になる道筋を作った。ついた異名は「映像の魔術師」だった。

その後、角川映画と組み、新人女優を軸に置いた映画を製作。81年「ねらわれた学園」で薬師丸ひろ子をブレークさせた。故郷・尾道を舞台にした「尾道3部作」でも「時をかける少女」で原田知世、「さびしんぼう」で富田靖子を見いだし「アイドル映画」のジャンルを作り上げた。

11年の東日本大震災を機に、映画で志を発信したいという地方の声の高まりを受け、戦争の悲惨さを訴える映画を作り続けた。

「映画は難しい哲学を分かりやすく、風化させないためのエンターテインメント。戦争や震災の恐怖は忘れられていくが、映画に残すとよみがえる。過去から学ばねば未来の平和は作り得ない。それが映画の力」

次代の映画人へ最後まで語り伝え、人生を全うした。