今月10日に渡哲也さんが亡くなりました。78歳でした。ニッカンスポーツコムでは、日本を代表するスターの実像に迫る連載「知られざる渡哲也」を配信しています。第3回は「もう1人いた憧れの人」です。

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渡さんと石原裕次郎さんが強い絆で結ばれていたことは知られているが、実はもう1人、敬愛していた人物がいた。高倉健さんだ。

7年前、東京・調布の石原プロで開かれた新年会。三々五々、参加者が帰り始めると、渡さんは応接室に消えた。確かめたいことがあったので追い掛けた。「高倉さんが『ぜひやりたいね』と共演を望んでいました。どう思いますか」。

実はその1カ月前、高倉さんにインタビューする機会があり、渡さんについて聞いた。「元気かな。僕は大好きなんです。石原プロはもちろん、本当にいろんなものを背負っているでしょ。もっと自由にいろんなことをやりたいと思っていると感じます。それでも毅然(きぜん)として生きている。本当は歯を食いしばっているのに、そんなところは見せない。1人で生きている自分にはできません。尊敬しています」。手紙のやりとりはするが、直接会う機会はほとんどない。「いいホン(=脚本)があれば、ぜひご一緒したい。いつでも待っていますよ。今度会うなら、そう伝えておいてくれませんか」。その言葉を伝えると、渡さんはうつむいた。

高倉さんは10歳年上。自分が日活入りした頃、既に東映の看板スターだった。裕次郎さんには弟分としてかわいがってもらったが、高倉さんの姿にも憧れた。「裕次郎さんは、自分にはないもの全てを持っているように感じましたが、高倉さんを見ていると、自分はこうありたい、感じる部分があるんです」。

高倉さんは任侠(にんきょう)映画で一時代を築いた後、東映を退社してフリーになった。どんなに好条件でも、納得できない作品の出演依頼はきっぱりと断った。日本映画界で、もっとも作品選びのハードルが高い俳優といわれた。

一方の渡さんは、男としてほれ込んだ裕次郎さんのため、映画製作で巨額の負債を抱えた石原プロを救うため、ひたすら目の前の仕事に向き合った。いつだったか、刑事ドラマの銃撃シーンの話をしてくれた。リハーサルでは、ロケ現場を取り囲む何百人という見物客の前で「いい年して自分の口で『パン、パン、パン』って銃声の音を叫んで走り回るんです。大事なことだと分かってはいるんですが、どうにも気恥ずかしくてね」と笑っていたが、内心は複雑だったと思う。

実は2人には、幻の共演作がある。渡さんにとってデビュー11年後の75年に、高倉さんが主演した映画「大脱獄」だ。当初は、初共演作として準備が進められたが、渡さんが病に倒れ、菅原文太さんが代役を務めた。

渡さんは、応接室のソファで背筋をピンと伸ばして言った。「今も憧れています。自分だって(映画で)ご一緒したいですよ。どんな役でもいい。高倉さんが納得してくれる、いいシナリオがどこかにありませんか」。結局、2大スターの共演は実現しなかった。

高倉さんが貫いた「孤高」という生き方に強くひかれながらも、兄貴分や仲間のために粉骨砕身する道を選んで駆け抜けた。高倉さんは、その生き方をまねできないとたたえていた。先に旅立った高倉さんとは、胸を張って再会して欲しい。【松田秀彦】