♪寂しくなると~ 訪ね~る~ 坂道の~ 古本屋~

1976年(昭51)にリリースされた、松本隆作詞、森田公一作曲、アイドル歌手・岡田奈々のスマッシュヒット曲「青春の坂道」の歌い出しだ。

そう、人は誰でも、悲しい時、寂しい時、調子の出ない時に、気持ちをドーピングしてくれる場所やグッズなど、何かを持っているはずだ。

記者の場合、90年代に放送されていた日本テレビ系「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」の動画を見ている。中でも一番のお気に入りは1993年(平5)1月1日に放送された「北野武全種目参加宣言 第11回ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」だ。お笑い芸人たちが熱湯地獄、粘着地獄、火炎地獄、全裸逆バンジージャンプなど、今では考えられない、ありとあらゆる困難に立ち向かい、笑わせてくれている。

同番組は、当時は年に3回、正月と4月、10月の改編期に放送されていた。くだらないと、笑わば笑え。みんな明るく楽しく、真剣に笑いを追求していた。沖縄、常磐ハワイアンセンター、熱海の海、ありとあらゆるところで行われたロケ撮影に取材にも行った。楽しかった思い出も、後から大問題になった現場に居合わせたこともある。

第11回のロケ現場は沖縄だった。いつもは後輩芸人たちにお手並み拝見とばかりにツッコミを入れているビートたけしが、自ら困難な種目に挑戦すると宣言して撮影は行われた。たけしが海兵隊員に水車拷問を受けて、女性問題を告白するというのが、番組のメインの「水車拷問記者会見クイズ」だった。スポーツ各紙の記者も収録に参加した。ライバル紙の記者が「たけしが女性問題を告白しました。スペース開けといて」「うんうん、女の事を話したから」など、芸達者なのに比べて、自分は「いつもペラペラしゃべってるのにカメラの前じゃ全然ダメ」と酷評されたのを覚えている。

それでも、実家に遊びに来たことがある記者、社長になった記者、若くして鬼籍に入ってしまった記者、お気に入りの女性記者、転職してSNSでつながっている記者と、懐かしい顔もたくさん映っている癒やしの映像だ。若き日の自分の姿を見て「『モテるはずだ』と納得、ただし麹町のテレビ局の50代限定だが…」と、にやついている。青春の大切な宝物だ。

そして、そのロケで、たけしの前に水車拷問で大活躍したのが、11日未明に亡くなったダチョウ倶楽部の上島竜兵さんだ。「聞いてないよ~」と言いながら前に出て水車拷問にかけられ、女性問題を白状して、大笑いの現場になった。

当時のダチョウ倶楽部は、一気にブレークした時だった。93年10月に始まった初の冠番組「王道バラエティ つかみはOK!」の制作ネタは日刊スポーツ1紙だけの掲載だったこともあり「ポスト・ビートたけしにTBSがダチョウ倶楽部を指名」と、どでかい記事になった。上島さんと奥さんの「挙式決定」の本紙スクープには、翌日すぐに自宅前で取材に応じて笑顔で答えてくれた。ネットなんかない時代、笑いもスクープもダイレクトに返ってきた。

日曜日に生放送のあとに、1本。2週に1度収録の日本テレビ系「スーパーJOCKEY」は「熱湯コマーシャル」のコーナーを見るために? 休みの日でも麹町のGスタまで毎回通った。上島さんは、その中で熱湯の芸を練り上げていった。まだリアクション芸という言葉がなかった時代だった。

09年には、上島さんの主演映画「上島ジェーン」(マッコイ斉藤監督)が上映された。舞台あいさつがゴールデンウイーク中の午後10時。休みの日で遊びに行く予定があったが、短パンでいいからとにかく来いと関係者に言われて、ビーサンで出掛けて上島さんの話を聞いた。「なぜ主演なのかは自分でも分からない」と言いながら、「お笑いウルトラクイズ」「熱湯コマーシャル」、そして本家「稲村ジェーン」の加勢大周、新加勢大周の話に楽しく応じてくれた。

お笑い芸人さんは、スイッチが切れている時は、驚くほど愛想がない人もいる。上島さんは、いつも自然体。テレビ局のトイレでバッタリあっても、ニコニコしながらあいさつしてくれた。先輩からも後輩からもいじられ、愛された人柄がにじみ出ていた。

上島さんが慕い、愛された志村けんさんは、2年前の3月に新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった。その志村さんが最後に仕事をした日に、ご飯を食べに訪れた麻布十番の小料理屋「よし喜」は、今年になってからコロナ禍で店を閉めていた。それが、連休明けの10日から営業を再開したばかりだった。上島さんの死を伝えると、女性店主は「いつも志村さんと一緒でニコニコしながら焼酎を飲んでたのに」と絶句した。

悲しい、悲しすぎる。元気の素だった動画を見れば見るほど、ノリにノッた上島さんの姿が悔しい。「聞いてないよ~」とお約束のギャグも湿っぽくなるばかりだ。冥福を祈るしかないのが残念だ。【小谷野俊哉】