元乃木坂46衛藤美彩(30)が、日本時間3月22日に行われたWBC決勝を観戦し、夫の源田壮亮内野手(30)の勇姿を現地で見届けた。WBC王者、世界一に輝いた遊撃手の妻となった。あらためて、乃木坂46時代はどんなアイドルだったのか振り返ってみたい。加入当初は苦しい時期も経験したが、どん底からはい上がってきた努力家だ。

11年8月に乃木坂46の1期生オーディションに合格。以前から芸能活動をしており、同年7月には「ミスマガジン」に輝いていた。ある意味“鳴り物入り”の加入だった。だが、「奇跡」とも呼ばれ、その後大人気となる「坂道」グループの礎を築いた層のぶ厚い1期生33人(当時)の中で、なかなか日の目を見なかった。

メンバー起用にはさまざまな要素が絡むので一概には言い切れないが、「ミスマガジン」の肩書よりも、芸歴のないピュアな“天然素材”のメンバーが優先された部分もあるのかもしれない。12年2月発売のデビューシングル「ぐるぐるカーテン」で選抜メンバー16人に入れず、その後も選抜漏れが続き、アンダーメンバーとしての活動が続いた。

当時は「乃木坂って、どこ?」(現「乃木坂工事中」)の収録スタジオ内でシングルごとの選抜発表が行われていた。名前を呼ばれた選抜メンバーはそのままスタジオに残り、呼ばれなかったアンダーメンバーは肩を落として控室に戻っていった。2枚目や3枚目シングルの選抜発表後、衛藤は控室でしゃがみ込み、両手で目を覆って号泣していた。

ライバルが多かったのも事実だ。同い年のメンバーは4人。衛藤以外の白石麻衣、松村沙友理、橋本奈々未さん(現在は引退)の3人はファンから「御三家」とも呼ばれ、グループの象徴的存在だった。13年1月に東京・乃木神社で行われた成人式には4人で出席したが、「御三家」は3人ともグループトップクラスの人気メンバー。1人だけアンダーだった衛藤は、複雑な心境だったに違いない。

それでも心は折れなかった。握手会での「神対応」はファンからも好評で、サービス精神満点だった。選抜総選挙などのイベントがない乃木坂46にとって、握手会の売れ行きは目に見える人気指標の1つとなる。着実にファンをつかみ、完売を重ねていった。後年「みんなと同じ頑張り度だったら、ファンの方が増える度合いも変わらないから、どうやったら人が来てくれるか考えて、細かいことを積み重ねました。一瞬も気は抜いてないです。私にとってのベースは、やっぱり握手会です」と話していた。

デビューから1年9カ月後の13年11月リリースの7枚目シングル「バレッタ」で初選抜入りを果たした。続く8枚目こそ選抜落ちしたが、16年のインタビューでは「あれでよかったと思う。『動かせない人』になればいいんだ、というのが分かったから」と回想していた。事実、翌14年7月発売の9枚目「夏のFree&Easy」で返り咲き、以降は20年3月の卒業まで全シングルで選抜入りした。

15年10月発売の13枚目「今、話したい誰かがいる」では最前列ポジションのフロントメンバーを務めた。後輩たちも増え、あねご肌の魅力でファンやメンバーから「みさ先輩」と呼ばれることも増えた。グループに欠かせない存在に定着した。まさに「動かせない人」となった証拠だった。

源田との結婚後の20年1月にインタビューした際には、アイドル時代を「自分に厳しく、戦地で『フル装備で行くぜ!』って感じでした」と笑って回顧していた。源田との生活については「彼がどうしたいのかを尊重して、ずっと、長くサポートできたら。食事面はもちろん、日々のコミュニケーションで精神的なところを支えていきたいです」と話していた。

衛藤が今回のWBC決勝後に日刊スポーツに寄せたコメントでは、右手小指を骨折しながら世界一まで戦い抜いた夫への思いや、チームやファンへの感謝がつづられていた。韓国戦で骨折をした夜に「絶対にショートで出て必ず世界一になる」と断言した源田を、「どんなコンディションであろうと、今自分ができる事だけに集中し、いつも通り丁寧に取り組むことには変わりはないよ」と毎日伝えて支えていたという。

プロ野球選手とアイドル。全く違う職業だが、何かシンパシーがあって、衛藤だからこそできた源田へのサポートがあったのかもしれない。最後に、説得力と意欲であふれていた、16年のインタビュー時の衛藤の言葉を紹介したい。

「私だけじゃないと思うけど、アイドル人生って多分、決まって困難がやってきて、それをどう打破していくかっていう連続なんですよ。苦しいし、逃げたいけど、それを乗り越える姿を見せて、勇気をもらってくれる人がいればいいな」。