ミスタープロ野球と呼ばれた巨人の長嶋茂雄終身名誉監督が3日、肺炎のため都内の病院で死去した。89歳だった。戦後の復興期、高度経済成長期だけでなく、昭和、平成、令和と長きにわたって、日本に夢と希望と勇気を与え続けた。

国民的スーパースターだった長嶋さんは、芸能界の国民的スーパースターとも親しかった。

よく知られているのが俳優・石原裕次郎さん。1つ年上で、「シゲ」「裕ちゃん」と呼び合う親友だった。長嶋さんが立教大から巨人への入団が決まった後、新聞の企画で対談した。長嶋さんはまだ大学生だったが、大型新人同士はすぐに意気投合した。

長嶋さんが新人王を獲得した翌年の58年1月、裕次郎さんは3冠王などさらなる活躍を期待する「男の友情背番号・3」という歌を発表した。

裕次郎夫妻とともに62年1月に、アメリカ・ニューヨークに旅行したこともあった。週刊ベースボールによると、長嶋さんは「キャンプまでに帰ります」と言い残して出発したという。

裕次郎さんが亡くなった後、命日には自宅を訪れ手を合わせた。

裕次郎さんの二十三回忌法要パーティーが09年7月19日に行われた。長嶋さんは脳梗塞の後遺症があるにもかかわらず、フィナーレで裕次郎さんの名曲「わが人生に悔いなし」を、舘ひろし、作曲者の加藤登紀子らとステージで歌った。コメントを求められると「(思い出は)たくさんあります…。だから、ありがとう!」と感謝した。2人の絆の深さを示すステージだった。

5歳年上の俳優・高倉健さんとも親しかった。雑誌の企画で、東映・大泉撮影所で対談した。長嶋さんは20代前半で、初対面ながら意気投合して、すぐに「シゲちゃん」「健さん」と呼び合うようになった。

ところが、しばらくして長嶋さんは「健さん」ではなく「鶴さん」と呼び始めた。高倉さんの先輩俳優の鶴田浩二さんとダブってしまったようだった。高倉さんは何事もなかったように、対談を続けたという。

それ以後、頻繁に会う仲になった。長嶋さんの長男の一茂が99年12月に神奈川・箱根神社で挙式した際、高倉さんも参列した。

長嶋さんは「キネマ旬報」の高倉さん追悼特集でインタビューに応じている。それによると、80年に長嶋さんは巨人監督の辞任会見を行った。その翌日、自宅ポストに高倉さんから「シゲ、辛抱しろ。きっといいことがある」と書かれた手紙が入っていたという。

14年11月10日に高倉さんが死去した際、長嶋さんは「ファンの多くは映画の中の高倉さんを見て、日本人の男としてのあるべき姿を学んだのではないでしょうか。私も高倉さんから教わることが数多くありました。本当に残念です」と追悼コメントを発表した。

国民的歌姫の美空ひばりさんは1つ年下だった。長男でひばりプロダクション社長の加藤和也氏(53)によると、ひばりさんは巨人の大ファンだった。巨人の応援番組などにも、よく出演していた。

79年8月30日に王貞治選手が800号本塁打を放つが、その前後で後楽園球場に一緒に観戦に行ったという。加藤氏は「小さいころで記憶は定かではありませんが、もちろんプライベートでチケットを買ってです。長嶋さんは監督で、監督室かな、サインしてもらった記憶があります」。

ホームパーティーには、長嶋さんも何度か来てくれたことがあったという。

01年6月のひばりさんの十三回忌の際、写真集「美空ひばり写真刊」(主婦と生活社)が発売された。ひばりさんと親交が深かった人として、森繁久弥さん、雪村いづみ、北野武らとともに、長嶋さんも寄稿してくれた。

加藤氏は「長嶋さんの死去で、あらためて昭和という時代が終わったような気がします」と話した。【笹森文彦】