エルビス・プレスリーの夢はプロレスラーになることだった-。伝説のロックスターはプロレスを愛し、死ぬ間際までプロレス映画を作ろうとしていた。元週刊プロレス、週刊ゴング外国人レスラー番のスポーツライター、トシ倉森氏(65)が生前のプレスリーを知るレスラーの証言をもとに、秘話を語ってくれた。【取材・構成=高場泉穂】


没後43年目の夏、エルビス・プレスリーの名前がニュースを賑わせた。プレスリーの孫、ベンジャミン・キーオさんが27歳の若さで亡くなったからだ。ベンジャミンさんはプレスリーの娘、リサ・マリーの長男で俳優兼ミュージシャン。プレスリーによく似た顔立ちと雰囲気を持っていた。7月13日、彼の訃報が報じられると、その話題は瞬く間に世界中に広がった。ビートルズ、ボブ・ディランにも影響を与えた伝説のロックスター、プレスリー。その偉大な功績は今もあせることはない。

プレスリーは実は大のプロレス好きだった。長く米マット界を取材してきた倉森氏は生前、プレスリーと交流があったレスラーからさまざまなエピソードを聞いてきた。「空手が好きで、高段者なのは知られていますが、プロレスが好きなことは今もあまり知られていないんです」。

1935年にミシシッピ州テュペロの貧しい家庭に生まれたプレスリーは、少年時代にテネシー州メンフィスへと移った。高校卒業後は電気工事のトラック運転手を務めながら、エリス・オーディトリアムなどのプロレス会場に出入りし、レスラーのかばん持ちをしていた。「エルビスはレスラーになりたかったんです。プロモーターには『お前は、やせっぽちだからだめだよ』とかけ合ってもらえず、チャンスはつかめませんでした」。

同時に音楽活動を続けていたプレスリーは、ラジオやコンサートで評判を得て1956年に出した曲「ハートブレークホテル」で大ブレーク。スター街道を歩んでいった。歌手として大成功した後も、プロレスへの愛は変わらなかった。ミッドサウス・コロシアムなど地元メンフィスのプロレス会場にはお忍びで頻繁に観戦。2階席の1番後ろや、ステージのカーテンの隙間から見たりしていた。また、マット界のスーパースター、ハーリー・レイスを自身のラスベガスのショーに招待したり、自宅のグレースランド内にリングを作り、私的なプロレス大会を開催したりしていた。58年に陸軍に入隊し、西ドイツに行く前まで付き合っていた彼女はペニー・バーナーという美しい女子プロレスラーだった。

2014年に来日したダニー・ホッジ氏(左)とトシ倉森氏(トシ倉森氏提供)
2014年に来日したダニー・ホッジ氏(左)とトシ倉森氏(トシ倉森氏提供)

1977年の春、プレスリーはマネジャーを通し、憧れのプロレスラーへ連絡を取った。相手はNWA世界ジュニアヘビー級王座に長年君臨したダニー・ホッジ氏だった。1956年メルボルン五輪レスリング・フリースタイルミドル級銀メダリストでありながら、58年にはアマチュアボクシング全米最大の大会、ゴールデングローブのヘビー級王者も戴冠。日本の国際プロレス、日本プロレスにも参戦し、ジャイアント馬場、アントニオ猪木とも熱戦を繰り広げた。「レスリングのメダリストとボクシングの全米王者になったのはホッジさんだけです。今でも歴代最強のレスラーの1人。エルビスは彼の大ファンだったんです」。

プレスリーはプロレスの映画を作ろうとしていた。その中でレスラー役を演じるためにホッジ氏にトレーニング役を頼んだ。倉森氏はホッジ氏本人とマネジャーから後に、この話を聞いた。「エルビスはプロレスラーになりたかった夢を映画の中でかなえようとした。でも話はそこで止まってしまいます」。その約半年後の8月16日、プレスリーは自宅のバスルームで倒れて息を引き取った。42歳だった。

プレスリーの歌う、ミュージカル「ラ・マンチャの男」の曲「見果てぬ夢」は名カバーとして知られる。“いかに望みが薄く、いかに遠くにあろうとも、あの星の後を追う”。歌手として大成功したエルビスも、プロレスラーになるという一番の夢は最後までかなえられなかった。


◆トシ倉森 1954年(昭29)12月2日、長崎県長崎市出身。京都産業大学外国語学部英米語学科卒業後、79年に渡米し週刊ファイトの特派員として全米マット界を取材。81年にカリフラワー・アレイ・クラブの正会員となる。83年に帰国後、ベースボール・マガジン社に入社し、「週刊プロレス」の創刊号から主に外国人レスラーを担当。「相撲」編集部を経て、日本スポーツ出版社に入社し、「週刊ゴング」編集部勤務。退社後、SWSの設立メンバーとして広報担当。現在はスポーツライター。著書「これがプロレスのルーツだ!カリフラワー・レスラーの誇り」(電子書籍)、共著として上田馬之助自伝「金狼の遺言」。