ネット上では「アゲアゲさん」と呼ばれ、「将棋ユーチューバー」として活躍する将棋のアマチュア強豪、折田翔吾アマ(30)が25日、プロ入りをめざす棋士編入試験の5番勝負第4局に臨み、本田奎(けい)五段(22)を破り、対戦成績3勝1敗で合格した。

大阪府出身の折田アマは棋士養成機関「奨励会」の最上位の三段まで昇りながらも、26歳の年齢制限に阻まれ、退会しました。夢を絶たれた瞬間を「死んだという感覚に近かった」と話す折田アマ。ある者は絶望し、ある者は今後の人生に途方に暮れ、将棋と縁を切る者もいます。

「ニッカンスポーツ・コム」のコラム「ナニワのベテラン走る~ミナミヘキタヘ」では26日から折田アマのプロ入りへの軌跡を連載します。記事とともに「アゲアゲさん」の本人動画もアップ。熱いメッセージをお届けします。

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将棋では、攻めにも受けにも役に立っていない盤上の駒のことを「遊び駒」と言います。

「自分のこれまでの将棋を遊び駒にしたくない」

自らの意志と関係なく、規定の26歳で奨励会を退会せざるを得なくなった折田アマ。絶望の中、わき上がる強い思いがありました。

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「これまで……」。

大阪府出身の折田アマの父はアマ三段。「小さいときから父とよく対局していました」。兄も将棋が好きになり、幼いときは2人で将棋を指すようになりました。小学6年のとき、将棋のインターネット対戦に夢中になりました。

当時、一般家庭に普及してきたのは電話回線(アナログ)を使ってインターネットに接続する高速・大容量通信サービス「ADSL(非対称デジタル加入者線)」。それまでは従量制で低速だったインターネットを使い放題で高速なものに変えました。

「小学校から帰ってきたら、すぐにパソコンに向かってネットで対局。兄弟でパソコンを取り合っていました」。知らない相手と対戦できる双方向性も魅力でした。

小学6年の夏にはハマりすぎて、両親に怒られることもありました。ネット対局と同時に「ケーブルテレビの囲碁・将棋チャンネルで銀河戦を見るようになっていた。プロ棋士の将棋を見ていて『なりたい』と思うようになった」。少年の夢は膨らみます。小学6年の冬には研修会に入会。中学に進学すると、卓球部に入部しました。「1対1の戦いが将棋と同じだから、以前からなんとなく好きだった」。幼いころから勝ち負けへのこだわりが強く、負けず嫌いでした。

中学3年の秋、プロを志し、棋士養成機関「奨励会」の門をくぐりました。大阪府内の高校に進学しましたが、高校2年のとき人生の転機が訪れました。

奨励会で1級に上がったことで「高校を辞めて将棋に専念したい」-。

両親に思いを打ち明けましたが、猛反対されました。「高校は卒業してほしい」。粘り腰で理由を並べました。「5級から1級まで勢いよくいけた。だから将棋に専念したいんや」。プロ棋士になりたい夢を両親に淡々と説明しました。約1カ月、説得し続け、高校2年の10月、中退。退路を断ち、将棋に専念するはずが…。1級に駆け上がった勢いは影を潜めます。

「1級に上がってからは1年で初段、1年かかって2段、2年かかって3段に上がった。スローペースだった。2段時代には昼夜逆転もあった」

自らを律し、時間をコントロールすることにてこずりました。将棋以外のことは全部排除して、将棋に集中しようと何回も思ったが、他のことをしてしまう…。その繰り返しの日々でした。

「ちょっと逃げもあった。時間のコントロール、メリハリ、未熟でした」

自分の弱さとも向き合いながら、少しずつでしたが、積み重ねてきたものが形になりつつありました。21歳でプロまであと1歩の三段に昇段しました。

「それまでの人生で一番、うれしかった。東京に行って指す機会もできた。そういうのは楽しみでした。何よりも強い三段と指せるのは楽しかった」

21歳の春、ついに三段リーグが始まりました。最難関の三段リーグは、三十数人いる三段同士が半年間、18局ずつ指し、上位2人だけが四段(プロ)に昇段できます。将棋の才に恵まれた全国の俊英がしのぎを削り、半年に2人、1年間で4人。究極の狭き門を経て、ようやくプロ棋士にたどり着くことができます。

一方、26歳までにリーグ上位2人に入り、四段になれなければ原則、退会となります。鉄の掟(おきて)です。

折田アマの1期目は8勝10敗。独特の雰囲気の対局も経験しました。1期目の最終局は年齢制限で退会が決まっている三段の先輩との戦いでした。「年齢制限が近い方は、プレッシャーを感じて指されているなと。自分も気を引き締めて、臨みました」。26歳で退会というタイムリミット。後年、折田アマもそのプレッシャーと戦うことなります。

2期目は9勝9敗。折田アマは、三段リーグに5年10期参戦しましたが、この2期以外は、すべて負け越しました。

「いろいろと試行錯誤をしてやっていた。5期目の時期に、実家から出て、1人部屋を借りて、環境を変えた。それでもなかなか結果にはつながらず、自分の力が上がっているという実感もなかった。そのあたりで自分の力の限界を感じた」

自問自答の中で、弱気な自分とも向き合うことになりました。

年齢制限は24歳ぐらいのとき、意識しだしたといいます。「やっているときは『上がれる』と思いこんでやっている。でも客観的に見たら『無理かな』というもう1人の自分がいた」。

ついに、そのときが来ました。26歳。年齢制限に阻まれ、退会しました。幼いときから抱いた夢が破れたときの心境を、こう振り返ります。

「1つの人生が終わった。死んだという感覚に近かった」

ある者は絶望し、ある者は今後の人生に途方に暮れ、将棋との縁を切る若者もいます。

将棋では「遊び駒」のことをなんの働きもしない「死に駒」とも言います。ある程度、覚悟はしていましたが「死んだ感覚」は壮絶なものでした。おそらく経験した者にしか分からないものでしょう。

一方、心の底からわき上がってきた強い思いがありました。

「自分のこれまでの将棋を遊び駒にしたくない」

「これまで…」。将棋にかけた膨大な時間をムダにしたくない。すでに退会が決まっていた最後10期目の三段リーグの最終局でした。その思いを強くする「大一番」がありました。

(つづく)

【松浦隆司】(ニッカンスポーツ・コム/コラム「ナニワのベテラン走る~ミナミヘキタヘ」)