39歳となった今もプロサッカー選手として活動している永井雄一郎は、実に笑顔が似合う男である。

 プロ22年目、全盛時は浦和レッズでその名を轟かせ、日本代表でもプレーした。長身の二枚目。ルックスからも世間の注目度は高かった。その永井は現在、ケガからのリハビリの渦中にいる。

 「焦らない訳ではないですけど。自分はここでサッカーをやるために来た訳で、自分がやるべきことができないのはつらいですし、苦しい時間ですよ」

 そう吐露した言葉とは裏腹に表情は明るかった。

右アキレス腱断裂からリハビリ中の永井
右アキレス腱断裂からリハビリ中の永井

■アキレス腱断裂の重傷

 昨季までJ2ザスパクサツ群馬に在籍した永井はことし2月、神奈川県社会人1部リーグのFIFTY CLUB(フィフティークラブ、横浜市)へ移籍した。元日本代表選手がJFL、地域リーグを飛び越し、さらに下の県リーグへ。プロとは程遠い世界である。なぜ? 驚きだった。

 そして3月、神奈川県のカップ戦に出場した試合で、右アキレス腱(けん)断裂という重傷を負った。どういう時を過ごしているのだろうか。6月下旬、チームが活動拠点とする横浜・東戸塚フットボールパークを訪ねると、永井は快く迎えてくれた。

 「試合中、周りの選手にまで聞こえるくらい大きな音がして(相手選手に)蹴られたと思った。一瞬、自分はフリーだったのになと思って、振り返ると、誰もいなかった。その時点でアキレス腱を切った人の話聞いたことがあったので、あれだな、と。切れちゃったな、と」

 ケガから3カ月が経ち、患部を保護する装具は外れた。今はウオーキング段階で、7月半ばまでにジョギング開始の予定だという。

 「9月半ばで6カ月たつので、ある程度競技に戻れて、という感じです。ただ順調にいってというところなので。アキレス腱は大きいので、再断裂には気を付けてやっている。(復帰まで)長めに考えた方がいいのかな、と思います」

韓国戦の後半ロスタイム、永井が決勝点を決める(2003年4月16日)
韓国戦の後半ロスタイム、永井が決勝点を決める(2003年4月16日)

 若かりし頃の永井のプレーは凄かった。長いストライドを生かした俊足に加え、巧みで軟らかなボールタッチでディフェンダーを次々と翻弄(ほんろう)する。97年に浦和に入団すると、1年目でリーグ戦30試合に出場した。ドイツ2部カールスルーエSCでもプレーした。99年のワールドユース(U-20ワールドカップ)ナイジェリア大会では、レギュラーFWとして準優勝に貢献した。

 03年にジーコジャパンに招集されると、3月のアウェー韓国戦では途中出場からゴールを奪った。代表初出場初ゴールが決勝点というオマケ付きだ。同年のコンフェデ杯フランス大会にも選出され、コロンビア戦では途中からプレーした。04年のJリーグ、東京ヴェルディ戦では70メートルものドリブル突破からゴールを奪うなど、ハットトリックを達成。「ドリブラー永井」の真骨頂だった。06年にJ1優勝、07年には浦和でアジアチャンピオンズリーグを制し、大会MVPも獲得した。

アジアCLで優勝し、大会MVPを受賞した永井(2007年11月14日)
アジアCLで優勝し、大会MVPを受賞した永井(2007年11月14日)

■クラブ唯一のプロ契約に

 そんな輝かしいキャリアを一つ一つ紹介していくとキリがない。その永井が今は県リーグにいる。そもそも理由が知りたかった。

 永井はこう説明する。

「Jのカテゴリーも考えていた中で、まずはサッカーを続けたいというのが大前提で、今後の人生も考えていかなきゃいけない。もともと横浜に生活拠点がある中、ここのチームの代表に声をかけていただいた。サッカーを含め、サッカー以外でも自分の幅を広げるべきだと考えました」

 来年で40歳、セカンドキャリアへも踏み出している。永井はメディア出演やサッカー指導のほか、筋力トレーニングとストレッチを組み合わせた「ピラティス」について学び、自らの経験に基づくメソッドをまとめているという。「さまざまな可能性を探っている」段階だが、「ただ根底にはまだサッカーをし続けたいというのがある」と続けた。

 では、所属するFIFTY CLUBとはどんなクラブなのか? J2横浜FCのオフィシャルパートナーで、自動車部品及び半導体部品、省力機械の設計製造を手掛ける「晃鈴(こうれい)産業」の角野隆社長(43)が、クラブの代表兼監督を務めている。その角野代表が神奈川・桐蔭学園高の同級生「昭和50年生まれ」たちとチームをつくり、2007年に「FIFTY CLUB」はスタートした。当初は趣味のチームで、県3部から2部に上がるのにも「5年くらいかかった」(角野代表)ほど。だが横浜F・マリノス、ヴィッセル神戸などでプレーしたFW北野翔が加入したことで評判となり、ここ最近は元Jリーガーが来るようになった。

 クラブはフットサルコートやテニスコートのレンタル事業、スクール事業などを展開しており、選手たちの働き口にもなってる。練習は週2回だけ、しかも夜の午後9時からだ。それ以外は各自でコンディションを整えるしかない。桐蔭学園OBつながりで永井獲得の話が持ち込まれた際、角野代表も最初は「半信半疑だった」という。だが、驚きの移籍は実現した。永井はクラブ唯一のプロ契約選手となり、チームの顔としてさまざまな面での期待も背負っている。

公式戦に臨むFIFTY CLUBメンバー
公式戦に臨むFIFTY CLUBメンバー

■サッカーの奥深さを知る

 その永井はなぜ、今なおプロサッカー選手であり続けようとするのか。

 「浦和にいた頃はサッカーを楽しむというよりは、本当に必死でやっていて。もともと浦和は個の力で勝負するところだった。それで清水に行った時に長谷川健太監督のもとで、戦い方とかコンセプトとか学ばせてもらって、サッカーの幅が広がるんだな思った。また、横浜FCに来た時にJ2の戦い方を、サッカーのやり方を、山口モト(山口素弘)さんのもとでポゼッションみたいなものをチームがやっていたので。そういうのを学び、やっているうちに自分のサッカーの幅が広がるような気がして。その頃から本当にサッカーが楽しく感じられるようになって。ずっとやりたいなと思う気持ちがぐっと強くなった。だから横浜FCをクビになっても関西1部へ、サッカーやり続けたいなというのが」

 13年オフ、向かった先は地域リーグのアルテリーヴォ和歌山だった。自らを求めるクラブがあれば、カテゴリーは関係なかった。

 「僕自身、浦和を出たというのがあって、浦和以外でもいろんなチーム、サッカーがあって、環境も含めて見てみたいというのがあって、浦和を出たので。そういった意味でも、関西1部に行った時でも、みんな朝から練習しながら、その後に仕事に行って。そのハードな環境でもみんなサッカーが好きで一生懸命にやっている姿が、自分自身もいいなと思った」

 プレースタイルも当然、変わった。丸くなったというより、さまざまなことを学び、サッカーの奥深さに触れたということだ。

 「浦和に入った頃はとにかく周りのことを考える余裕なかったので、ドリブルで、個の力でというのしかなかった。だけど浦和で最後の方はバランスを、チームのために自分は何をやるべきなのか、考えさせられた。やっぱりドリブルだけではダメだなと。もちろん、ここという時の武器にドリブルは使いたいけど、それ以外の時に、全部が全部ドリブルしていたら、やっぱりチームのリズムが出ない。そういうのを学んだ。プレーの幅を広げるという意味で、学ばなきゃいけないとやってきた」

横浜FC戦の後半、ボールを競り合う群馬FW永井(2017年10月1日)
横浜FC戦の後半、ボールを競り合う群馬FW永井(2017年10月1日)

 チームにとって自分の役割とは、何か。和歌山ではボランチもやった。その後の群馬でもFWにこだわらず、チームとして求められることをやった。

 「自分が絶対にボールロストする感じではプレーできないですし、ある程度、自分のところでリズムつくったり考えるようになって。逆に自分のドリブルというのが、結構減ってしまうというのは自分の頭の中で思いながら、そういう葛藤も少なからずあります」

 まだまだサッカーへの情熱は冷めない。ケガに見舞われても、その思いは挫けることがない。

 「ケガを治して、自分のドリブルの柔軟性とかキレというものをもっともっと思い出すというか。年齢とともにキレが失われた部分がもちろんありますし、またトレーニングでアウター(表面的な筋肉)とかつけすぎた分、自分の柔軟性が失われた部分、本来できていたものができなくなった部分も感じるので、そういう体の部分を見つめ直して今は取り組んでいます。チームとしては上のカテゴリー(関東リーグ)に上がっていくために、その力になれるように、その時その時に思い浮かぶ、自分がやるべきプレーをやっていくということだと思います」

 永井の言葉を聞いて、アメリカの詩人サミュエル・ウルマン(1840~1924年)の「青春の詩」を思い出した。

 「青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる」

 永井は今も、青春を生きている。

【佐藤隆志】(ニッカンスポーツコム/サッカーコラム「サカバカ日誌」)