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サカバカ日誌

真夏の日本クラブユース、ピッチに咲いた雑草の物語

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 幼少期からのエリート教育が進むスポーツ界にあって「雑草」を見つけると、何だかうれしくなる。

 今夏も日本クラブユース(U-18)サッカー選手権が7月22日から8月1日まで開催され、高校生プレーヤーが猛暑に負けず力いっぱいのプレーを披露した。その決勝では清水エスパルスユースが大宮アルディージャユースを2-0で下し、16年ぶり2度目の日本一に輝いた。清水ユースのエースナンバー「10」を背負い、チームの大黒柱となったのがFW斉藤聖七(せな)選手(17)だった。

清水エスパルスユースFW斎藤聖七がドリブルでゴールに向かう
清水エスパルスユースFW斎藤聖七がドリブルでゴールに向かう

■町クラブ出身から日本一

 1点を先制した清水ユースは前半アディショナルタイム、大きな追加点が生まれた。斉藤がドリブルでゴールに向かい、相手マークを振りほどくと、右サイドのFW山崎稜介選手(17)へパス。すかさずゴール前へ走り込み、山崎からのグラウンダーのパスを直接、右足で蹴りこんだ。

 準決勝を見た時点では、FCバルセロナさながらのリズミカルで素早いボール回しで攻め立てる大宮ユースが強い、と予想していた。だが、前半から全員一体で攻守にハードワークを繰り返す清水ユースが試合の主導権を握り、後半には相手の猛攻にも耐え、崩れなかった。その鍛えられたチームの中心にいたのが、キャプテン斉藤選手だった。

 「笛が鳴った瞬間は実感わかなくて。(清水ユースの)〝史上最弱〟とか言われていて、3年生のかける思いが強かった。それに(ジュニアユースで)3冠世代の2年生に1年生も、みんなの力が合わさってこういう結果になったと思います」

 キャプテンらしい、ハキハキとした受け答えである。何より興味を持ったのが、その経歴だった。中学時代の出身クラブは神奈川・横浜市にある「パルピターレジュニアユース」。いわゆる町クラブ出身である。

 1993年にJリーグが誕生し、はや25年。プロへの登竜門として、小学生世代でまずJ下部チーム入りを目指す。その入団セレクションとなれば、例えば500人が受験しても片手ほどしか受からない。そこから篩(ふる)いにかけられるエリート集団だ。今大会の清水ユースの登録選手30人のうち、24人が清水ジュニアユース出身。町クラブ出身は少数で、しかも10番の主将となると、今大会参加32チームではツエーゲン金沢U-18の沢村亮輔選手(FC小松)との2人だけ。しかも93年Jリーグ創設時の「オリジナル10」クラブと考えれば、さらに特別感がある。

 そんな重責について問うと「自分が町クラブからこっちへ渡ってきて、でもエスパルスということには変わらないので。前所属はありますけど、そこは3年間あるので一緒にやっているので、気にせず自分がやってやるって気持ちはありました」。さらによくよく聞くと、小学生時分からの「雑草」ぶりが明らかになった。

16年ぶり2度目の優勝を果たし、歓喜する清水ユースの選手たち
16年ぶり2度目の優勝を果たし、歓喜する清水ユースの選手たち

■人生ってこれだけ変わる

 神奈川・福田FCでサッカーを始めたが「市選抜も地区選抜も、何も入ったことがありません」。横浜F・マリノスファンだったため、小学6年時にマリノスを受験したがあえなく1次で落選。県内で強豪と呼ばれる町クラブも受けたが、受からなかった。「パルピターレに行って、そこしかなかったので入ろうと。でもそこで活躍すれば、どこにでも行けると思いましたし、そこで活躍してやろうという気持ちがあった」。

 J下部への抵抗感は強かった。「エリート集団とか、横浜でマリノスの軍団とか見るとびびっている自分とかあったんで、横浜FCとかも。正直J下部は怖かったです」。だが見返してやろうという「雑草魂が自分の中にはあった」。自分を信じ、得意のドリブルを徹底して磨いた。

 中学3年でパルピターレのエースとして、チームを初の関東大会に導いた。「そういう舞台は初めてだったので。行くんだったら、自分の特長を出そうと思って、ひたすら走って、ひたすらドリブルして、それを繰り返して」。お山の大将的なプレーが、スカウトの目に止まった。

 あれから3年、無名の「雑草」少年は、日本一のタイトルを手にした。

 「人生ってこれだけ変わるものだと。神奈川の小さな町クラブにいた自分が、3年後に日本一に立っているとは実感がわかないです。日本一なんで」

 一番感謝している人は? そう尋ねると「やっぱり家族ですね。こうやって、自分が静岡に行きたいというのもしっかり家族が受け入れてくれて、お金も出してくれて。やっぱり親孝行は絶対にしたいと思います」。胸がすく言葉だった。

サンフレッチェ広島ユース。後列右から3人目が森保
サンフレッチェ広島ユース。後列右から3人目が森保

■日本代表森保監督現る

 もう一つ「雑草」がいた。今夏、日本代表監督に就任した森保一氏もまた、そうだ。長崎日大高卒業後、無名の選手はマツダへ入り、たゆまぬ努力を重ねて日本代表選手へと成長。その後の活躍はご存知の通りだろう。日本サッカー界で今、最も熱い視線を浴びる男、その森保氏が準決勝を観戦していた。

 サンフレッチェ広島ユースの背番号「17」森保陸選手は、自身の三男だった。右ウイングバックの位置に入り、守備となれば最終ラインまで入って相手FWをマーク。攻守が切り替われば、一気に右サイドを前線へと駆け上がった。スピードが持ち味で、父親譲りの「汗かき選手」だった。

 試合は2-1とリードして迎えた後半アディショナルタイム、最後のワンプレー。大宮ユースにコーナーキックからの流れでまさかの同点ゴールを許し、延長戦の末に敗れた。日本代表だった父が同じ17番を背負い、「ドーハの悲劇」に散ったシーンさながらだった。試合後、声をかけた森保陸選手は、伝え聞く父さながら実直な人柄だった。

 「自分らの力を出し切って最後までやれたかなと思います。最後、あーいう失点になったというのは自分たちに何か足らないものがあったと思います。今後、そこを修正していって、今度、大宮とやるときには勝てるようにしたいと思います」

 父の日本代表監督就任については「信じられません」と話し、「普段はごく普通のお父さんです」。そして将来の夢を問うと「プロ選手になって、A代表に入りたいです」。よどみのない言葉に、父から引き継いだであろう雑草魂で夢をかなえてほしい、そんな思いを抱いた。

薄暮の中、プレーする選手たち
薄暮の中、プレーする選手たち

■「疾風に勁草を知る」

 草に関することわざで「疾風に勁草(けいそう)を知る」という言葉がある。激しい風が吹いて、初めて強い草が見分けられるという意味だ。つまり、困難に遭って初めてその人間の価値、本当の強さが分かるということである。

 ひときわ暑いこの夏を走りきった選手たち。困難に打ち勝ち、勁草たる強さを見せてくれた。そんな彼らの真摯な姿勢や行動は、その後に続こうとする者たちへの勇気や希望になるだろう。人生は自らの意志とともにある―。そんな当たり前のことに、あらためて感じ入った。

【佐藤隆志】(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「サカバカ日誌」)


◆佐藤隆志(さとう・たかし) 1991年入社のサッカー大好き記者。年代・カテゴリーを問わず、サッカーの話題を書いていきます。2010年のサッカーW杯南アフリカ大会期間中、現地から連載した「サカバカ日誌」をリニューアル。日本代表やJリーグの陰に隠れがちなアマチュアリーグや大学、育成年代などドメスティックな話題を取り上げていきます。

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