「おもしろい人がいる」。そう教えられ、横浜に会いに行った。
■サッカースクールを主宰
中村元樹さん、34歳。プロサッカー選手として欧州、南米、北米、アジア、アフリカ、オセアニアと“世界6大陸”を渡り歩いた。2018年に引退し、現在はサッカースクール「Global Football Academy」を主宰。その他にも社会貢献事業やエージェント業を手掛け、「JFAこころのプロジェクト」の夢先生として学校の教壇にも立つ。
柔和な笑顔に気さくな人柄は、こちらの心を自然と開かせる。世界でさまざまな人と接してきたからなのだろう。そこで深めた見聞をもとに、どういう指導を子どもたちにしているのか。
「楽しむことでサッカーを好きになってもらえれば、おのずと努力してうまくなっていく。ドイツで見たコーチは、1人1人の子どもの感情をうまくコントロールして火をつけてあげる指先のフィーリングがうまかった。そういうのに自分も感化された。やる気のスイッチ、楽しいと思うスイッチ、成功体験を1つでも増やしてあげることで、彼らはもっと伸びる」
熱い思いを言葉ににじませた。信念の背景にあるのは、ここに至るまでの型破りなサッカー人生。その濃厚な「旅路」に、じっくりと耳を傾けた。
■高校にサッカー部がない
兵庫県芦屋市生まれ。小学生時代、イタリアのセリエAペルージャでプレーする中田英寿に憧れた。小学6年でブラジルへ短期留学し、海外へと意識が向いた。ただ選抜歴もなく、サッカーエリートとはかけ離れたものだった。中学1年で地元のクラブに入ったが、身長は128センチ。挫折感を味わい、中学の部活へ。プロへの憧れを持ち続け中学を出て海外へ行こうと考えたが資金はなく、地元の市立芦屋高へ進学したところ、そこにサッカー部はなかった。仲間を集めてフットサル部をつくり、土日は社会人チームでサッカーを続けた。ポジションはFW、トップ下にウイング。前線からボールを追いかけ回し、積極果敢にゴールに向かう「岡崎(慎司)さんみたいな」選手だった。
アルバイトで資金をつくり、高校を卒業すると知人をツテに興味のあったドイツへと渡った。5部に所属するクラブのU-19チームに所属できた。そこでのカップ戦や練習試合では、後にドイツ代表でワールドカップ(W杯)優勝を果たすノイヤーやエジルがいたシャルケのU-19と何度も対戦した。「いつもボロ負けですけど、1回だけ3-2で勝ちました」。
2年弱のドイツ生活を終え帰国。再び高校時代にプレーした社会人チームで試合に出ていた。このチームはセレッソ大阪のユース選手たちがつくったチームだったこともあり、練習生として1週間、C大阪に参加できることになった。当時は香川真司、乾貴士というそうそうたる若手がいた。
「ドイツで強い人たちとやっていたので、ボーンと当たって乾さんを吹っ飛ばした。そういうのが自信になった。ここは通用するんだとか、プロのものが細かく見られたのが良かった。高校で末端にいて、夢を話しても笑われて、人生でも一番苦しい時代。それが反骨心になって、セレッソに行ったことでチャンスが1つ進んでいるというのが見えた」
この経験がプロへの意欲を加速させることになった。知人のツテで南米ペルーへと向かった。入国早々に拳銃を突きつけられ、携帯電話を奪われた。契約寸前だったクラブが資金不足で解散ということもあった。災難続きにもめげず「何百、何千というエージェントとクラブに自分の映像と経歴書を送り続けた」。そこで返答があった東欧のアルバニアへ飛んだ。
■アルバニアでプロ契約
ついに念願かない、2部のFKトモリ・ベラトと初めてプロ契約を結んだ。2011年1月、23歳になっていた。同時に2部のビリシュティ・スポルチへレンタル移籍することになった。
「プロになった時、なれるわけがないと否定していた人たちまでありがたく思った。そういう人たちがいたからこそ反骨心があった。笑っていた人たちも、お前すごいなって応援してくれた。いい意味で手のひら返しでした」
東欧での経験はまた、強烈なものだった。会長が監督も務める絶対君主制的クラブで「会長が部屋に入ってくると全員がビシッと整列する。すごい光景でした。監督の目を気にするあまり、みんながみんな、人のせいにする。パスの方向が違っても、何で取れないんだって。そうしないとクビにされる。気持ちに余裕がなく、試合中に胸ぐらをつかんでケンカになったこともあった」。
試合では懸命に体を張り、得点も挙げた。仲間がクビになっていく中、生き残っていった。ただ“海外サッカーあるある”で給料が未払いに。「気持ちがそこに持っていかれると、それによってパフォーマンスが下がるのは本末転倒」。待遇面を考慮し、欧州からアジアに拠点を移した。インドを皮切りに、フィリピン、ラオスと渡り歩いた。そしてラオスで29歳になった時、新たな思いが浮かんだ。
「未知の国へ行こう。世界すべての大陸へ行こう。人生経験もしながら生きる道を得られるじゃないか」
フィリピンに渡る前の26歳の頃、ニューヨーク・コスモスに練習生として参加し、北米大陸は踏破していた。それだけに残る2つの地域、アフリカとオセアニアに目を向けた。たまたま見たフェイスブックで、知人が東アフリカのマラウイにいた。日系企業がスポンサーとなっているクラブの存在を知り、連絡を取った。とんとん拍子で話が進み、練習参加が認められた。
■マラウイの「ナカムラ」
まさに未知の国マラウイだが、サッカー熱はすこぶる高かった。空港到着からメディアに追われ、常に護衛がつくなどスター選手の気分を味わった。給料は「日本のサラリーマンほど」。物価の安い国では十分だった。入団したのは名門ビィ・フォアード・ワンダラーズFC。もう1つの人気クラブ、ビッグブレッツとのダービーマッチは4~5万人を集めるほどだ。
マラウイ初の日本人選手はシーズン3冠に貢献した。今も、その時の動画がスマホに保存されている。優勝直後、熱狂したサポーターがグラウンドになだれ込み、選手たちを取り囲んだ。まるで1970年のW杯メキシコ大会決勝で、優勝したペレのいたブラジル代表を取り囲む群集のように。「この国でアジア人イコール、ナカムラ。人生であり得ない経験をした1年です」。マラウイで「ナカムラ」と言えば、シュンスケでなくゲンキなのだ。
そして最後に残ったオセアニア、ニュージーランドへと渡った。セミプロとして給料をもらいつつ、体育の授業でサッカーを教えた。3カ月の短期間だったが、学校活動に参加したことが、その後の人生への貴重な学びとなった。
「いろんな人種がミックスしている中で差別もなく、いい雰囲気で伸び伸びとしている。日本ってすごく小さなことでいじめが起きる。何でだろうって思いました。ニュージーランドにはいろんな人種や太っている子もいるけど、みんな仲良く生きている。そこに個性が出ているし、なんかすごく感動したし、勉強になりました」
■子どもは可能性しかない
世界を見てきたからこそ、伝えたいことがある。
「僕はサッカーがベースにあってつくられた人間。サッカーを通じてみんなの人生が豊かになればいい。サッカーのおかげで世界中に知り合いができたし、いろんな経験をしたことで、さまざまなものがここに詰まっている」
夢先生として学校の教壇に立ち、自らの挫折や失敗談を話す。その上で夢に向かって前向きに生きることの大事さを説く。「あきらめないこと、チャレンジすること」。その話に勇気づけられ、涙を流す子もいる。「子どもは可能性しかない。今うまくいっていなくても、まだまだ可能性がある」。子どもたちが書いたシートには、コメント欄を大幅に越える分量での熱いメッセージを記す。自らの可能性を信じ続けた男は、どこまでも全力だ。
後日、中村さんが主催する親子サッカーを見学した。小学校低学年の子どもたちとその親が一緒にコートに入り、懸命にボールを追っていた。褒めていい雰囲気をつくり、ゴールをすればみんなで喜び合う。誰もが伸び伸びと心を通わせ合い、ピッチに一体感を生み出す。遊びの中にある教育的な要素があふれていた。
「サッカーって、教えるだけじゃなくてメンタルケアの方が大きい。子どもたちのメンタルを上向きにしてあげたら、それだけでうまくなる。言われたことしかやらず個性を消すのはもったいない。もっと1人1人が個性を出していいよ、楽しんでいいよ、って。彼らの感情をコントロールする。教育というより、引き出してあげる、導き出すというのが正しいのかもしれません。サッカーを通じた教育の改革ってできるんじゃないかと思っています」
■好きになり、夢中になる
世界を笑顔で渡り歩いた男は、気がつけば英語、ドイツ語、スペイン語が話せるようになっていた。「世界中でやさしい心を持った人にたくさん出会ったし、そういう人に助けられてきた」。そんな思いから常に海外に思いを馳せ、使わなくなったサッカー道具をアフリカに送る社会活動に取り組む。
また、「SOCCER CAN CHANGE THE WORLD~サッカーは世界を変える~」というキャッチコピーのもと、世界の恵まれない子どもたちをサポートするオーストラリア発のチャリティー・サッカーブランド「PARK」という事業にも関わっている。誰かが「PARK」のボールを1つ購入すると、同じ型のボールが恵まれない環境にいる、どこかの国の子どもたちに届けられる。自ら深めた見聞が、こういうところでも生かされている。
「好きになり、夢中になることで、学ぶことの苦しさを楽しさに変える」
越境フットボーラーの言葉には、サッカーの枠を超えた、生きていくためのエッセンスが詰まっている。
【佐藤隆志】(ニッカンスポーツコム/サッカーコラム「サカバカ日誌」)