やり手の名GM、久米一正が運んできた優勝/連載4

  • 優勝を決めサポーターと一緒に喜びを爆発させる名古屋の選手たち(10年11月20日)

<連載:グランパスVから10年(4)>

2010年の11月20日に、Jリーグの名古屋グランパスというクラブがリーグ初優勝を成し遂げた。圧倒的な強さで悲願のタイトルをつかみ取り、主将の楢崎正剛がシャーレ(優勝銀皿)を掲げた。それぞれの立場から、この10年と今を描く連載「グランパスVから10年」。過去に10年ほど担当した元記者がお届けする。(敬称略)

 ◇   ◇   ◇

当時は、監督のドラガン・ストイコビッチがそのカリスマ性でチームをまとめ、フロントに敏腕のゼネラルマネジャー(GM)、久米一正(故人)がデンと構えていた。

日本のサッカー界発展のため、厳しくも、選手思いの視点で、もっともっと力を発揮してもらいたかった久米は、もういない。

清水エスパルスに戻り、副社長をしていた2018年11月23日に、がんでこの世を去った。

Jリーグの立ち上げにも奔走し、柏レイソルでGMとしての経験を積んだ。当時の日本では珍しい、プロのGMとして名古屋グランパスに引き抜かれた。

久米は、2008年に、清水エスパルスからやって来た。

やり手だと評判だったGMは、就任してすぐ、会見で「なまず」になると言った。

「気仙沼にあがったイワシを東京・築地まで生き生きとしたまま運ぶには、水槽になまずを入れると効果がある。イワシは食われないようにと逃げ回るから、鮮度が保てる。私はなまずですよ。バクバク食ってやるくらいの気持ちでぶつかる」

「なまず」は、風紀委員長よろしく選手の頭髪と、言葉の乱れから取り締まった。

すぐに車も乗りかえた。トヨタのクラウンに。ナンバーは「758(ナゴヤ)」。メッセージ発信が、とにかくうまかった。

冬場はよく、クラブカラーの赤いセーターを着ていた。派手だったが、似合っていた。

選手も右にならえ。外車ばかりだった選手用の駐車場には、トヨタ車が増えていった。金髪の選手は、いなくなった。

 

名古屋グランパスの年末の恒例行事だった契約交渉をめぐるゴタゴタも、なくなった。

契約交渉の席で久米は突然、「目の前に1メートルの箸がある。これでおいしくご飯を食べるにはどうしたらいい?」と全員に質問したことがある。

「手で食べる」「箸を折って使う」-。

不正解が続く中、「互いの箸で食べさせ合う」と正解を答えた選手がいたと、大喜びしていた。

控えGKで、しっかりチームを支えていた西村弘司が、ズバリ、1発解答した。

久米は、出番に恵まれなくても、一切態度に出さず、徹底してチームのため、ひた向きにサッカーに取り組んだ西村が正解したことを、ことさら喜んでいた。

その西村は、2016年限りで現役引退。今はトップチームの広報として、ピッチに最も近い位置にいる。

親分のような存在だった久米だが、契約が絡む話し合いでは、必ず選手を「さん」付けで呼んで、1人の個人事業主として敬意を持って接していた。

 

当時のチームは、現場にピクシー、フロントに久米という両輪で、ブレずに真っすぐ進んでいた。

大型補強もあった。“燃費”はどうか? と聞かれれば、決して良くはなかったかもしれないが、まさに、どこよりも速く、真っすぐ優勝へとひた走る“トヨタ車”そのもののような質と仕上がりだった。

この絶妙のバランスは、長くは続かなかったのだが…。

ただ、2010年のグランパスの優勝という結果に限れば、絶対に、GMだった久米という人物なしに語ることはできない。

優勝後、2015年には、GMから社長となった。2016年のJ2降格をもって引責で退任し、名古屋グランパスを去った。

このあたりの低迷を含め、毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばする面はあるが、ここでは、2010年の話にとどめる。

 

とにもかくにも、久米という人物は、GMとして、立ち位置が絶妙だった。

当時、選手会長も務め、今季からFC TIAMO枚方で監督になり、日本フットボールリーグ(JFL)昇格という結果を出した小川佳純は、監督になった今、痛感しているという。

「クラブの視点に立つと、スポンサーを大切にしながら、選手、現場を大切にするというのは、相反する部分もあったりして難しい面もある。でも、あのころの名古屋では、久米さんがそういうことをしてくれていた。だから、僕たち選手はピッチ上のことに集中できた。久米さんは当時、トヨタの人の言うことも理解しつつ、選手のことを一番に思ってやってくれていた。それでいて、トヨタの人たちやスポンサーを納得させる資料を作って、補強など、いろいろと難しいことを実現させた。タイトルのためには、チームが勝つため、クラブの総合力が問われると思うんです。選手だけではなく、運営、広報、営業にかかわる人たちも。どれだけの人が、クラブのために働くことができるか、それが全て。選手は、そのありがたみを感じながらプレーするから、負けられない。その意味で、あのころは特別だった。久米さんとピクシーが本気で優勝しようとやっている。勝っていく中でチームは同じ方向を向いていましたね」

小川がチームを率い、JFL昇格を決めたのは11月23日。久米の命日だった。

 

2010年の優勝は、久米にとってもリーグ初制覇だった。そこで、待ち望んでいた「再会」があった。

キャプテン楢崎正剛が平塚の空に突き上げたシャーレ(優勝銀皿)は、久米の手によるものだった。

Jリーグ創設前、事務局長だった久米は、当時の川淵三郎チェアマンの命を受け、シャーレ制作プロジェクトを担当した。

ドイツ1部リーグ、ブンデスリーガの優勝皿(マイスターシャーレ)などを参考に、デザインを考え、英国に発注をかけた。

それから18年たって、ついに手元に戻ってきたシャーレに触れ「やっと戻ってきた」とニヤリ笑っていた。

冬になると、毎年シャーレが天高く掲げられる。

そのたびに、久米のあのうれしそうな表情を思い出す。

(つづく)【八反誠】