色あせぬ煌めき

リッポン「牧神の午後」の魅力、町田樹氏が語る

日本の歴史を刻んできたフィギュアスケーターや指導者が、最も心を動かされた演技を振り返る連載「色あせぬ煌(きら)めき」。第4回は「氷上の哲学者」の呼び名で知られた町田樹さん(30)。6月に初の著書「アーティスティックスポーツ研究序説」を白水社より刊行し、いまは研究者として氷を見つめる。13-14年シーズンのアダム・リッポン(米国)のフリー「牧神の午後」から、他競技にはないフィギュアの魅力を説く。

著書「アーティスティックスポーツ研究序説」を手に写真に納まる町田樹氏(撮影・鈴木みどり)
著書「アーティスティックスポーツ研究序説」を手に写真に納まる町田樹氏(撮影・鈴木みどり)

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「陸上などの競技は、当たり前ですが勝ち負けと身体運動の評価が厳然と一致します。しかし、フィギュアは芸術点が科学的に基づいた評価尺度ではないわけです。それゆえに、中途半端なスポーツと批判されることもありますが、一方でだからこそ勝ち負けでは表しきれない美質、魅力が備わっているのです」。

語り口は現役時代と変わらず理知的。名演技を列挙する前段として、その競技特性から丁寧に滑り出した。100メートル走では順位(=タイム)こそ最大尺度。「8位だけど素晴らしい走り」とはならない。だが、ジャンプなどの技術点と、「曲の解釈」など芸術性を評価する演技構成点で順位を決めるフィギュアでは、「勝てなかったけど、素晴らしい演技」が成り立つ。スポーツかアートか。時に論争にもなるゆえんだが、町田さんはそこに可能性を見いだす。

「リッポンの演技がそれを象徴していて、彼はこのシーズンは良い成績は残していない。けれど、この演技はフィギュアスケート史に必ず刻まれるべき優れた作品です。見る人が勝ち負けにハラハラする一方で、独自の観点で評価できるところがフィギュアにはたくさんある。ぜひ観戦だけでなく鑑賞のまなざしで選手を見てほしい」。

自身は14年にソチ五輪5位、世界選手権銀。研究者の道に進むため、同年末の全日本選手権の場で引退宣言してから6年。多分野から分析を進めてきた。この10月からは國學院大で助教に就く。では、リッポンの演技の何が素晴らしいか、「講義」に入る。

プログラムのテーマは「牧神の午後」。1912年にモダンバレエの礎を築いたニジンスキーが初演した演目から着想を得ている。ギリシャ神話に登場する半獣神「牧神」と、水浴びする7人の水の妖精ニンフとの戯れが描かれた作品で、バレエ史から見ると、このバレエ作品の革新性は主に以下のように挙げられる。

<1>立体性を排除した平面的な舞台

「バレエでは、正面の鑑賞者に対し、エポールマン(体のポジションにひねりを加える)で体を立体的に見せていく。ニジンスキーはそのルールを破り、従来の立体的に見せる舞台でなく、二次元(スーパーファミコンのマリオのように)で動き続ける踊りを提示しました」。

<2>基本的なバレエの動作(パ)を用いない説明不可能な動きのデザイン(振付)

「またニジンスキーは、古典バレエの名前が付く動き(パ)を全て排除しました。バレエ特有の華やかな回転技や跳躍技は一切見られません。誰も言葉で説明できないような、従来のバレエ理論から逸脱したモダニズム志向の表現が展開されました」。

これらの特性をリッポンの「牧神の午後」は踏襲している。振付師のトム・ディクソンにより、氷上でも二次元的な動きを取り入れ、不在のニンフがあたかもそこにいるような演出も施されている。リッポン自身の容姿も重要だ。均整が取れた体のラインとカールがかかったブロンドヘアで、「牧神」を演じたニジンスキーの姿がオーバーラップすると、町田は説明する。

「このプログラムは優れた『牧神の午後』の翻案作品だと私は評価しています。ディクソンとリッポンはプログラムを創作するにあたり、ニジンスキーの『牧神の午後』を深く分析したはずです。バレエ史とフィギュアスケート史が、わずか4分半の演技の中で見事に結節している。フィギュアスケート文化の広がりに気付かせてくれる貴重なプログラムとして、皆さんにもお勧めしたい」。

実際に町田さんは13年スケートアメリカで、このフリーを演じたリッポンと試合で戦った。

「正直なところ当時は、ライバルの演技をしっかりと見て、良いところは良いと認めたり、見習えるところを発見したりという余裕はなかった。もちろん敬意の念は感じていましたが。でも引退し、現役時にライバルだった選手の演技を改めて見直すと、こんなにも素晴らしかったのかと驚かされることがあります。ともすれば自分は視野狭窄(きょうさく)になっていたのだなと反省させられます」。

フィギュアのプログラムを学術的に研究すると、得点では集約できない価値を言語化することができる。そしてこの解釈の奥深さがフィギュアの醍醐味(だいごみ)の1つだと確信した。

「2013年当時の自分がそのまなざしを持っていたら、もう少し成長できたのではと少し反省することもあります。だからこそ現役の選手たちには、過去の名作をたくさん見て優れた部分を吸収して欲しいです」。

初の著書でも図版やデータを用いて、リッポンの演技への思考を深化させている。そのタイトルに「序説」とある通り、研究はまだ始まったばかり。町田さんは競技への貢献を誓い、学術の道をいく。【阿部健吾】

◆町田樹(まちだ・たつき)1990年(平2)3月9日、神奈川県生まれ。3歳から千葉・松戸市のリンクで競技を始める。広島県で育ち、岡山・倉敷翠松高時代の06年に全日本ジュニア選手権で優勝。関大に進学して12年中国杯でGPシリーズ初優勝。14年ソチ五輪で5位、同3月の世界選手権で銀メダル。同年末に引退後は大学院生となり、アイスショーにも出演した。プロ引退後は研究生活を送り、今春に早大大学院スポーツ科学研究科修了、博士号を取得した。

◆アダム・リッポン 1989年11月11日、米ペンシルベニア州生まれ。10歳の頃にスケートを始め、08、09年世界ジュニアで男女初の2連覇。シニア初年度から10年4大陸選手権、16年には全米選手権を制するなど、18年11月に引退するまで第一線で活躍した。18年平昌五輪は個人10位、団体で銅。両手を伸ばした3回転ルッツ「リッポン・ルッツ」と、ドーナツスピンが代名詞だった。15年にはゲイであると公表。170センチ。ツイッターは@Adaripp

13年10月、フリー「牧神の午後への前奏曲」の演技を行うアダム・リッポン(ゲッティ=共同)
13年10月、フリー「牧神の午後への前奏曲」の演技を行うアダム・リッポン(ゲッティ=共同)
町田樹著「アーティスティックスポーツ研究序説」
町田樹著「アーティスティックスポーツ研究序説」

日本の歴史を刻んできたフィギュアスケーターや指導者が、過去に最も心を動かされた演技を振り返る連載です。名選手、名コーチ、競技発展に尽力してきた功労者の今なお色あせぬ記憶を通じて、氷上の煌めきをファンの皆さまと共有できればと思います。

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