東京パラリンピックの聖火リレーは22日、東京都での3日目となった。本来は多摩地区の国立、日野、立川、東大和、国分寺5市の公道を走る予定だったが、コロナ禍のため国分寺市の新庁舎建設予定地でのトーチキスイベントとなった。

第1区間の国立市で走る予定だったプロギタリスト「片腕のギタリスト輝彦」さん(45)が舞台に立った。2012年10月、路上を歩行中に右半身の感覚を失い右足から崩れるように倒れて、救急搬送された。立川市の病院の集中治療室(ICU)に入るまで意識はあったが、次に目覚めたのは約1カ月後だった。過労による脳内出血だった。

当時の様子を輝彦さんは「目が覚めたら病室のベッドの上で、起き上がろうしたら右半身が動かない。言葉も頭の中では理解していても文字をみても日本語が理解できない状態だった。あっ、ギターが弾けなくなる、と涙があふれ出てきて毎日死ぬことしか考えられなかった」と振り返った。

ギタリストとしてプロデビューを果たし、尺八とのコラボユニット「シュアショット」として世界進出の構想を練っていた。初めての全国ツアーが始まったころに倒れた。失意のどん底でもギターは離さなかった。リハビリ治療で多くの作業療法士と話したが「演奏は無理」「前例がない」と将来的なギター演奏を否定されたが、リハビリを担当してくれた作業療法士の長瀬由美子さん(53)だけは「多分、ギターで演奏できるようになるよ」と唯一認めてくれた。

輝彦さん 初めて肯定してくれる人に会えて生きる希望を見いだせた。それから立ってその場に留まる訓練に半年、さらにギターを持つまでに3カ月かかった。右手は麻痺していて、力を入れることはできないけど、自分の意思とは関係なく勝手に動き出す。長瀬さんがリハビリ担当者じゃなければ訓練に耐えることはできなかったかも。

一時は長瀬さんに「こんな邪魔な右腕、切れないんですか」と感情をむき出しにして訴えたが「それはダメ」と笑顔で諭された。

長瀬さん 不自由な自分の体とどう付き合っていくか。麻痺した側の足や手の切断を懇願する患者さんは多いのですが、体幹が、体のバランスが悪くなってしまうんです。

動きを制御できない右手に悩み抜き、輝彦さんは「右手も生活に参加させる方向にシフトチェンジした」と右腕との付き合い方を変えたと話した。リハビリから約1年が経過し、ようやくギターを持てるようになった。長瀬さんとも相談しながら左手だけの奏法に頭を悩ました。演奏中に暴れ出す右手をギター下部に装着したひもを軽く握らせることで落ち着くことを発見した。そして左手でギターの弦をタップさせて、その強弱でリズムと奏でることに成功した。

輝彦さん 長瀬さんはギターはまったくの素人。でもギターを知らないからこその発想があって助かった。実現はしなかったけど電動歯ブラシで弦を弾くという面白いアイデアもいただいた。固定概念にとらわれずに柔軟な考え方をできるようになったと思う。

長瀬さんの務める立川市の病院で月1回の割合でリハビリ患者に披露する演奏会をしている。

長瀬さん 私も輝彦さんがギターを弾けるなんて思ってもみなかった。でも、ギター演奏したいという方向性は否定してはいけないと思ったんです。院内での演奏会は輝彦さんのリハビリでもあるし、他のリハビリ患者さんへのいい刺激にもなって、私たちがとっても助かっています。

聖火ランナーとなった22日の前日となる21日、その日のトーチキス会場となった葛西臨海公園駐車場(東京・江戸川区)のステージで左手だけでギター演奏をした。パラリンピックにかかわる場で満足のできる演奏ができた。

輝彦さん 普段できたことが簡単にできない恐怖は底知れないんでう。でも、あきらめなければ何でもできる。僕の演奏を聴いて、再び演奏意欲を持つ方も多い。その際には簡単ではなく、とても大きな困難が待ち受けていることを正直に話します。その苛酷なリハビリからはい上がってきてほしいですね。

現在、輝彦さんは1人で「ワン・アーム・ミュージック・オーケストラ」という音楽ユニットで活動する。

輝彦さん これ、僕が子どものころに世界で活躍した「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」を意識いて、障がいを持つミュージシャンとコラボして世界に打って出たいと考えている。だからこのユニットはOAMOと個人的には呼んでいるんです。何人とオーケストラが組めますかね、楽しみです。

理想は、年末の第九ように数多くの障がいを持つミュージシャンとセッションすることだ。【寺沢卓】