19年世界選手権優勝の中西麻耶(36=阪急交通社)は5メートル27で6位だった。4大会連続出場、4位で表彰台を逃した16年リオデジャネイロ大会の雪辱を誓ったが、メダルには届かなかった。3大会連続出場の高桑早生(29=NTT東日本)は4メートル88で8位だった。

試合後、中西は「いままで戦ってきたパラで一番厳しい戦い」と振り返った。敗因に挙げたのは「スプリント力が上がってきていたのをいかせなかった」。助走の力を跳躍に伝える技術に、手応えを感じられないままの本番になった。

最終6回目を残して、記録は5メートル27。メダルのためには5メートル78以上が必要な状況で集中力を高めた。引き締まった表情で走りだし、踏み切ったが、判定はファウル。赤旗を確認すると、うなずき、右手を挙げてコーチ陣などからの声援に応えた。手拍子をあおる場面がなかったことを問われると、「そこまで準備をちゃんとできていたら手拍子あおれたんですが」と悔しそうにした。

1年延期が決まった昨夏、あえて開催を想定した調整を積んだ。19年11月の世界選手権(ドバイ)を5メートル37で制して東京パラ代表に内定し、女王として迎えるはずだった母国大会。その場をイメージし、ピーキングを合わせた。公園や河川敷でも走り、練習の質は落とさない。家族を守るためにコロナ拡大前に故郷の大分を離れ、コーチの住む大阪で1人暮らしも始めた。1年後のこの日を、戦略的に描いてきていた。

ただ、試合を終えてのぞかせたのは「帰りたいですね、大分に」。照れくさそうに笑いながらの本音だったが、苦しかった時期を感じさせた。大阪について「いまいるチームの皆さんもいいですよ」と感謝した上で、「ちゃんとした胸の内をしゃべる、ほっとしたいために行きたい場所、いつも競技場で会える人に会えなくなった。帰りたいな。競技場のおっちゃんと、競技場に帰って、練習の前に陸上についてあーだこーだと気さくな時間を持ちたい」と望んだ。

競技人生は続く。「ちょっといろいろ試してみたい部分はある。感覚任せな部分も問題だったかな。感覚でするのではなく、よくなるためにどうアプローチして練習を組み立てるか、いろんな方面の人からアドバイスをもらいたい」と前を向いた。

◆中西麻耶(なかにし・まや)1985年(昭60)6月3日、大阪市生まれ。大分・明豊高時代はソフトテニスでインターハイ出場。06年に仕事中の事故で右ひざ下を切断。07年に陸上を始める。パラリンピックは08年北京大会100メートル6位、200メートル4位。12年ロンドン大会は走り幅跳び8位、200メートル9位、100メートル10位、16年リオ大会は走り幅跳び4位、100メートル16位。158センチ。