快進撃を続けた日本男子は、前回リオデジャネイロ五輪優勝の米国に60-64で敗れて銀メダルだった。持ち味の堅守を武器に、第4クオーター途中までリードするなど王者をあと一歩のところまで追い詰めた。1976年トロント大会から出場し、12回目の挑戦で初のメダル獲得。魅力あふれるプレーで、車いすというカテゴリーにとどまらず、日本バスケット界に新たな歴史を刻んだ。

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試合直後に流した悔し涙は、表彰式では晴れやかな笑顔に変わっていた。37歳のベテラン藤本怜央は「終わったときは、4点差で負けた悔しさのほうが大きかった。でも、ここにいるのは、歴史を変えるために集まった12人。そのメンバーで充実した時間を過ごしてメダルを獲得し、歴史を変えた事実を最後に喜んだ」。銀メダルを手に胸を張った。

試合を重ねるごとに強くなってきたチームは、実は大会直前、米国との練習試合を実施していた。10分ごとのミニゲームを何度も行ったが、いずれも歯が立たなかった。京谷和幸監督は後日、米国の日本評が「プリティー・イージー(非常に楽)」だったと耳にし、「次に対戦したら、一泡吹かせてやる」と意気込んでいた。そして大会最終日の大一番でその誓いを示した。一泡どころか、強烈なパンチを何発も食らわせ、強敵を追い詰めた。一進一退の攻防から、第4Q途中には5点リード。しかし、最後に王者の底力を見せつけられた。

今大会で12連続で出場ながら、これまでは常に世界の厚い壁にはね返されてきた。16年リオデジャネイロ大会後に「世界に通用するディフェンス」をテーマに掲げ、堅守からの速攻を軸としたスタイルに取り組み、ものにした。

選手たちのキャラも際立っていた。名作バスケ漫画「スラムダンク」の流川楓(るかわ・かえで)をほうふつさせる華麗なプレーが評判を集めたのが鳥海連志。自国開催を飛躍の舞台とした天才肌は「自分たちのスタイルが世界に通用することを証明できた大会だと思う」。長らくエースとしてけん引してきた藤本は「世界一の舞台で、世界一の相手に真っ向勝負で戦えた」とうなずいた。

3点シュートの名手、香西宏昭は「リオ以降、願掛けで断っていたラーメンを久々に食べたい」と笑えば、主将の豊島英は「接戦となり、もう1歩で届きそうという希望も見えた。次の日本代表が借りを返してくれると思う」と次世代に期待を掛けた。

東京大会で得た実績と自信、そして盛り上がりを次へとつなげていく。【奥岡幹浩】