根強い副作用…41年たっても悔しい沢村賞選考委/追憶 江川卓~巨人編〈3〉

誰の目にも明らかな直球の球威。誰もが気になる「空白の一日」の心境。入団後の人間関係…「昭和の怪物」江川卓の神話性は巨人に入っても色あせず、2つの時代をまたいで一層、際立っていきます。身構えず遠慮せず、懐に飛び込んでいった1人の記者。何十年も関係を保って深め、軽妙なタッチで深層に潜っていきます。作新学院時代に続く「追憶 江川卓~巨人編」を、毎週水、土曜日に更新の全10回で送ります。(敬称略)

プロ野球

勝利、防御率、奪三振、勝率、完封数

野球人生で初めてわが世の春をおう歌した1981年(昭56)だったが、同時に最高の落胆を味わったシーズンでもあった。「沢村賞」の、まさかの落選である。

20勝で最多勝、防御率2.29、奪三振221。ほかに勝率(7割6分9厘)、完封数(7)を加えた「投手5冠」を獲得した。歴代でも、賞名の由来となった沢村栄治、ヴィクトル・スタルヒン、藤本英雄(以上巨人)杉浦忠(南海)杉下茂(中日)ら、8人の達人しか成しえていない快挙だ。

81年といえば、江川が自分のボールの最盛期を「1981年から82年の7月くらいまで。プロで自分のボールが『速い!』と感じた」とする時期と符合している。

自信があった。誰もが江川の受賞を疑わなかった。そのときに備え、記者会見場も設営されていた。だが、選考委員会が挙げた名は―。

「巨人 西本聖!」


「どうして僕に聞くんですか? 同じチームの西本が獲ったんだから、いいじゃないですか。獲った人に聞けばいいでしょ。関係ないよ」

人格って…メンバーは新聞社、通信社の部長クラス

当時の江川はそう言い放って、会見場を後にした。顔はひきつっていた。

何年経っても、その経緯を話すときの表情は沈みがちだ。

「今でも、すごく悔しい。入団前に自分で密かに目標を立てた。『100勝、1000奪三振、現役10年、沢村賞、最多勝、防御率、奪三振』。その中の1つだから、獲りたいタイトルだった」

沢村賞は、プロ野球草創期に活躍した沢村栄治の功績をたたえて制定された。先発完投型の本格派投手が対象とされた。当時は、各新聞社、通信社の部長クラスによる投票で選ばれていた。

バディを組んで準備運動する江川と西本。沢村賞を巡る論争は2人に関係なく、よきライバルとして良好な関係が続いた=1983年

バディを組んで準備運動する江川と西本。沢村賞を巡る論争は2人に関係なく、よきライバルとして良好な関係が続いた=1983年

最終的に江川と西本が残った。ここで、意外な「ワード」が波紋を広げ、選考の行方を大きく変えていく。「選考理由に、その投手の『人格』は含まれるのか?」。

ありていにいえば「ドラフト破り」をするような人物が、果たしてふさわしい人格者なのか? ということだろう。話し合いは「人格を含む」派と「数字での判断が客観的」派に分断され、紛糾した。

1955年(昭30)、和歌山県生まれ。早大卒。
83年日刊スポーツ新聞社入社。巨人担当で江川番を務め、その後横浜大洋(現DeNA)、遊軍を経て再び巨人担当、野球デスクと15年以上プロ野球を取材。20年に退社し、現在はフリー。
自慢は87年王巨人の初V、94年長嶋巨人の「10・8最終決戦」を番記者として体験したこと。江川卓著「たかが江川 されど江川」(新潮社刊)で共著の1人。