「死ぬまでの負い目」…小林繁と28年後の和解/追憶 江川卓~巨人編〈7〉

誰の目にも明らかな直球の球威。誰もが気になる「空白の一日」の心境と、入団後の人間関係…江川卓の神話性は巨人に入っても色あせず、一層、際立っていきます。身構えず遠慮せず、懐に飛び込んでいった1人の記者。何十年も関係を保って深め、軽妙なタッチで深層に潜っていきます。作新学院時代に続く「追憶 江川卓~巨人編」を、毎週水、土曜日に更新の全10回で送ります。(敬称略)

プロ野球

「宿命の対決」チケット2100円→4万円

1980年(昭55)8月16日。後楽園は異様な熱気に包まれていた。巨人対阪神17回戦。

報道によると、当時2100円の「A席」は、当日4万円まで値がつり上がっていたという。伝統の一戦は、「宿命の対決」というプレミアが付いて盛り上がりに花を添えていた。

巨人江川卓、阪神小林繁。

「空白の一日」事件による入団即トレードで、阪神から巨人に入った江川と、巨人を追われ阪神に移った小林と…。因縁の初対決。

雨が降り出していた。


78年ドラフトで、江川は阪神に指名され、1度は「契約」。その前提として巨人とのトレードが画策された。

この時、江川は球団に金銭での移籍を強く求めた。それなら誰にも迷惑をかけず巨人に入団できると踏んでいたのだ。

ところが、球団間で進められた水面下のトレード工作は、その思惑とはかけ離れたものだった。野球協約の不備を突いて強引に江川と契約しようとした巨人。ドラフト指名からプロセスに従って交渉を続けた阪神。どちらがアドバンテージを取るか、は誰の目にも明らかだった。

巨人には江川獲得の「代償」として、もはやエース級の放出しか、選択肢がなくなっていたのだ。

金銭のはずが…エースの放出「話が違います!」

交換要員として76、77年と連続18勝を挙げ、長嶋巨人の看板投手に上りつめた小林の名が挙がった。

「それでは約束が違います。小林さんにそんな迷惑がかかるんだったら、話が違います!」

江川は強く抵抗したが、求める「金銭」では交渉は決裂していただろう…。

江川卓とのトレードで巨人から阪神に移籍することになった小林繁(左)は入団会見で小津正次郎球団社長と握手=1979年2月1日

江川卓とのトレードで巨人から阪神に移籍することになった小林繁(左)は入団会見で小津正次郎球団社長と握手=1979年2月1日

“ウオッチャー”こと私は、ドラフト騒動の頃を取材していない。まっさらな気持ちで「あの頃何を考えていた?」と江川に聞いた。

1955年(昭30)、和歌山県生まれ。早大卒。
83年日刊スポーツ新聞社入社。巨人担当で江川番を務め、その後横浜大洋(現DeNA)、遊軍を経て再び巨人担当、野球デスクと15年以上プロ野球を取材。20年に退社し、現在はフリー。
自慢は87年王巨人の初V、94年長嶋巨人の「10・8最終決戦」を番記者として体験したこと。江川卓著「たかが江川 されど江川」(新潮社刊)で共著の1人。