「ニシがいなかったら、俺はとうの昔に手抜きしてたよ」/追憶 江川卓~巨人編〈9〉

誰の目にも明らかな直球の球威。誰もが気になる「空白の一日」の心境と、入団後の人間関係…江川卓の神話性は巨人に入っても色あせず、一層、際立っていきます。身構えず遠慮せず、懐に飛び込んでいった1人の記者。何十年も関係を保って深め、軽妙なタッチで深層に潜っていきます。作新学院時代に続く「追憶 江川卓~巨人編」を、毎週水、土曜日に更新の全10回で送ります。(敬称略)

プロ野球

「ニシ」&「スグルちゃん」

江川と西本-。

言わずと知れた1980年代における巨人投手陣の「双璧」である。剛球「命」の背番号30と必殺シュートの背番号26。ライバルと言われ、競争心を燃やした。開幕投手の座を8年間交互に奪い合った。

記者時代から2人を知る私だが、あえて西本のことをどう思っていたか、江川に聞いてみた。

「お互い『ニシ』、『スグルちゃん』と呼び合って仲はよかったよ。ゴルフもよく行ったし、練習のキャッチボールの相手もずっとニシだった。新聞には仲が悪いとか書かれたな。『沢村賞』の一件もあったし、ね。ただ、ニシはこっちをかなり意識していたと思う。こっちはそれほどでもないんだけど、何せ、人には負けたくない性格だから。『受けて立つ』みたいになった…」

◆西本聖(にしもと・たかし)1956年(昭31)6月27日、愛媛県生まれ。松山商から74年ドラフト外で巨人入団。左足を高く上げる独特の投球フォームが人気を呼び、シュートを武器に江川と並ぶ巨人のエースに成長した。80~85年まで6年連続2ケタ勝利を記録。81年に「沢村賞」を受賞した。89年トレード移籍した中日で初の20勝到達、勝率.769をマークした。92年にオリックスに移籍。94年入団テストで巨人復帰も、1軍登板の機会はなく、同年引退。通算成績は165勝128敗17セーブ。防御率3.20。守備にも定評があり、ゴールデングラブ賞を8回受賞。引退後は03年阪神投手コーチ。10年ロッテの投手兼バッテリーチーフコーチ。13年にオリックスの投手兼バッテリーコーチを務めた。15年は韓国プロ野球のハンファで投手コーチに就いた。176センチ、81キロ。右投げ右打ち。

2人の出会いは73年の春。

センバツで華々しく全国デビューした江川との対戦を求めて、作新学院(栃木)には全国から練習試合の申し出が殺到した。1学年下の2年生エース西本を擁した松山商(愛媛)もその1つだった。

西本はこの試合で「怪物」の実相を目の当たりにする。16三振を奪われ、ノーヒットノーランを喫したのである。後に西本は江川を「まさに、天才。同じ高校生のボールとは到底思えない。次元が違った」と評している。

招待試合前、並んでピッチング練習をする作新・江川(手前=3年)の投球をジッと見る松山商・西本(2年)。この試合で江川は6回までパーフェクト、毎回の16奪三振=1973年6月9日

招待試合前、並んでピッチング練習をする作新・江川(手前=3年)の投球をジッと見る松山商・西本(2年)。この試合で江川は6回までパーフェクト、毎回の16奪三振=1973年6月9日

高校からドラフト外入団の西本にすれば、江川が「空白の一日」事件から巨人に入団する時期は、先発ローテーション入りをつかみかけた時期でもあった。

西本は以前、私の取材に「今、入って来られたら押し出されてしまう。『巨人には来るな!』と思った」と、正直な感想をもらした。

100球、200球…ブルペン捕手がついに

その2人が闘争心をギラつかせたのが、「地獄の伊東キャンプ」だった。

1955年(昭30)、和歌山県生まれ。早大卒。
83年日刊スポーツ新聞社入社。巨人担当で江川番を務め、その後横浜大洋(現DeNA)、遊軍を経て再び巨人担当、野球デスクと15年以上プロ野球を取材。20年に退社し、現在はフリー。
自慢は87年王巨人の初V、94年長嶋巨人の「10・8最終決戦」を番記者として体験したこと。江川卓著「たかが江川 されど江川」(新潮社刊)で共著の1人。