日本代表の欧州遠征が終わった。組織力のドイツ、フィジカルのトルコにいずれも4得点。仲間を信じて動く連係、パスワークが際立った。この信じる心こそ、勝利の原動力となったのだろう。2050年までにW杯で世界一を目指す日本にとって、「仲間」と同じ意識を持って同じ方向を目指すことはすごく大事だ。
50年以上前のことを思い出した。1970年(昭45)7月、日本サッカー界に初めてコーチング・ライセンス制度が導入された。私はそのJFAコーチングスクール1期生。国見高の小嶺先生ら27人が受講した。千葉・検見川の東大グラウンドで実技を行い、宿泊は東大の寮を使用した。約1カ月の合宿でライセンス研修費は、当時は高額の4万8000円だった。
日本サッカー協会(JFA)は各都道府県から指導者を目指す30人を選出した。東京都からは2人が選ばれ、光栄にも私の名前も入っていた。私は当時、国士舘大学には在籍していたが給料が少なく、4万8000円は手が出ない高額。辞退も考えたが、大学に相談したところ、研修費を出し、快く送り出してくれた。結局、辞退者が3人出て27人で、第1回指導者ライセンスのスクールがスタートした。
研修メンバーのほとんどは日本サッカーリーグ(JSL)でプレーした元選手で、大学までしかプレー経験がない私との実力差は、あまりにも大きかった。私は、解剖学やスポーツ医学、栄養学など理論授業は得意としたが、実技で彼らに交じってプレーすると大きな壁を感じた。
特に私はリフティングが下手だった。しかし毎日、最後にはリフティングのリレーゲームで練習を締めていたので、苦しかった。27人を3チームに分けてリフティングでつなぐゲーム。ボールを落としたら元の位置に戻ってまた始めないといけないルールだった。私が入ったグループはいつも最下位で、そのチームはアップダウンの激しい東大グラウンド周辺を2周しないといけなかった。
3チームのメンバー構成は自分たちで決めていた。私が入るとチームに迷惑になると思い、いつもメンバーを組む時には躊躇(ちゅうちょ)していたが、誰もが「おいでよ」と手招きしてくれた。私はその時「仲間」という言葉を意識した。練習最後に罰ゲームがあるのに「仲間」たちは私を見捨てなかった。「サッカーは1人のスポーツではない。仲間が力を合わせて同じ目標に向かってまい進する。大切な仲間のため頑張るもの」と実感した。この経験は、今でも指導者としての私のモットーでもある。
講習は朝7時から始まる。でも私は6時にはボールを持ってグラウンドに出て、1人リフティング練習を続けた。「仲間」のために、自分ができることをきちっと準備したかった。講習最後にリフティングの試験もあった。頭、もも、足でそれぞれ20秒ずつ、計1分間続けないといけない。みんな軽々とクリアしていく。私の番になった。講師も講習生も全員が自分のテストをストップして、私のところに集まった。「仲間」からの熱い視線が、強い日差しのように全身に注がれた。「ヨシッ」と力が入った。
まずは頭から。1回、2回…。私のチャレンジは1度で成功し、大きな拍手が起きた。26人の「仲間」が、私の成功を自分のことのように喜んでくれた。ホッとした安堵(あんど)感と期待に応えた充実感があった。研修会は無事に終了し、私は初代コーチングライセンスを取得することができた。「仲間」がいなかったら難しかっただろう。
もう53年前。今でも第1期JFAコーチングスクール修了証は大事に保管している。あいうえお順でナンバーを決めたと思うが、私はナンバー5。ひと月の研修を経て、私の誇りでもあるライセンスをもらったが、もっと大事な「仲間」を得たことが、大きな財産になったのは間違いない。
サッカーも人間の成長も、そういうものだと思う。1人ではできないものが、「仲間」と一緒ならできてしまう。今後、指導者生活が何年続くか分からないが、「仲間」を大切にする選手、人間を育てていきたい。それこそが、75年間、サッカー界で恩恵を受け続けた私の恩返しだと信じている。
(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「サッカー人生70年 国士舘大理事長 大澤英雄」)





