ちょっと風変わりな引退会見に参加した。自主企画、自主運営。自らの引退を自らプロデュースした。その主は、ビーチサッカー元日本代表の原口翔太郎(東京ヴェルディBS所属)、35歳。
ビーチサッカーのFIFAワールドカップ(W杯)に3度出場。2021年ロシア大会では強豪国を次々と破り、決勝に進出したメンバーの1人だ。開催国のロシアに2-5と敗れたものの、世界2位という偉業を打ち立てている。22年シーズンをもって現役から退いた。
■09年に出合い競技人生は14年
2月12日夕刻。会見の冒頭で原口さんはこう説明した。
「14年前にビーチサッカー始めた時はリーグ戦の公式戦もなかったし、まだまだ普及していない。今みたいな会場もない、ビーチもないというところからスタートしたのを鮮明に覚えています。2009年に競技を始めて2年後に(当時監督の)ラモス瑠偉さんに代表合宿に呼んでもらい、そして2014年に日本代表にも入り、数々の海外経験もさせてもらいました。時間がたつにつれ、いろんな人が支えてくれ、ここまで来られたことをすごく感謝したいと思い、引退会見を企画しようと思いました。みなさんにお礼を申し上げたくて実施しました。みなさん、あらためてありがとうございました」
会見に参加したメディアはごくわずか。家族、友人、チーム関係者、支えてくれた企業やファンに加え、子どもの姿も目立った。会見はライブ配信がされ、終盤には、タレント関根勤さん、浦和レッズGK西川周作選手、元なでしこジャパンの岩清水梓選手など幅広く親交のある仲間たちから数多くのメッセージ動画も届いていた。首尾一貫、温かみのある内容だった。
■海辺のレクリエーション発祥
ビーチサッカー界初の引退会見-。そもそもビーチサッカーと言われ、それがどういう競技なのか、説明できる人は少ないのではなかろうか。
言葉の通り砂浜の上で行われるサッカーだが、1チーム5人で試合時間は12分×3ピリオド。コートは縦37メートル×横28メートル。ゴールサイズは縦2・2メートル×横5・5メートル。5号球と同じ大きさで、少し柔らかい専用のボールが使用される。靴は履かずはだし。オフサイドはない。交代は自由性。タッチラインを割ったボールはスローインでもキックインでもOK、などなど。
その歴史をひもとけば、ビーチスポーツが盛んなブラジルでレクリエーションとして始まったもの。1995年に初めて世界選手権が行われた。日本は2年後の97年に初めて参加。当時のメンバーには、元Jリーガーで日本代表でも活躍した戸塚哲也さんもいた。競技人口の広がりとともに、国際サッカー連盟(FIFA)は05年からW杯(09年以降は2年に1度)を開催している。
■取り巻く環境を改善したい
東京・渋谷の「eスポーツ高等学院 シブヤeスタジアム」での会見。会場に常設されている大型LEDビジョンには、原口さんの数々のプレーシーンを編集した動画が映し出された。絶え間なく走りチームに活力を与え、そしてゴールも奪える。どういう選手だったのか、短い時間ながらもよく分かった。
そして自主プロデュースによる引退会見には、もう1つ理由がある。それは「ビーチサッカーをもっと知ってもらいたい」ということ。競技を広く知ってもらうことで、取り巻く環境の改善につなげていきたいという狙いがあった。
「いろんなものを犠牲にしないといけない。その中でビーチサッカーをやれる環境というか、仕組みというか、ハード面が必要かなと思います。後は安定した生活が必要。月~金は仕事、土日だけビーチサッカーだと難しい」
「体も気持ちもまだ全然ついていける」という原口さんは、現役を続けられる状況にありながら引退を決意した。その真意は「裏方として支えたい」という思いだった。
「ビーチサッカー選手って、裏側では苦労している選手がいっぱいいる。(経済的に)仕事で悩んだりとか、競技に集中できない選手が全国にいっぱいいる。そうした人たちを裏で支えるとか、そういう人たちがいるんだよ、ということをもっといろんな方に知らせたいと思いました。それが自分の役目かなと思って、まだまだ(現役を)やれるという状態ではありますけど、裏側に回ろうと思って引退を決意しました」
自身が関わった14年で取り巻く環境は変わった。各地区ごとにリーグ戦が整備され、人材の育成と日本代表の強化につながっている。それでも国内の競技人口は「アマチュア含めると1000人弱はいるのかな? 500人くらいかな」というほど。世間の認知度は高くない。
だからこそ、ビーチサッカーに魅了された者として次は競技の普及、発展に尽力したい。安心して競技に打ち込めるよう、自身のようにアスリートと仕事の2本柱を持つ「デュアルキャリア」を浸透させることも大事なポイントだ。
■競技のため入社8カ月で退社
苦労をいとわず、自身の道を切り開いてきた。川崎市出身。プロサッカー選手を夢見ていたが、中学時代のサッカー部は素人もいる中、11人そろうのがやっとだった。地元の川崎市立橘高校に進学し、そこからサッカーに本格的に取り組んだ。厳しい指導に食らい付き、チームは激戦区の神奈川でベスト8に入るまで成長した。
松蔭大に進むとサッカー部1期生としてキャプテンとして奮闘した。4年生で神奈川県大会で準優勝するまでに成長。勉強も手を抜かずゼミの教授の推薦で東芝系列の大手企業に就職することができた。そして就職して半年後、友人に誘われて参加したビーチサッカーの大会で、その競技に魅了された。
「もう一度、本気でプレーして日本代表になりたい」と周囲の猛反対を押し切り、入社から8カ月で退社した。就職に尽力した教授には土下座して詫びたという。そこに思いの強さがみて取れる。
■18時間の車移動で大会参加
10年、東京レキオスBSに練習生として参加。日本代表メンバーがそろう日本一のチームだけに、練習から必死に食らい付いた。
スポーツクラブでアルバイトしながら競技に打ち込む日々。収入の少なさは悩みの1つだった。熊本で大会があった時は、仲間同士で車の運転を交代しながら片道18時間かけて行った。それが当たり前だった。
「自分はここまで生き残れた。元サッカー選手とかフットサル選手とか、代表にすぐなれると思って参入してきたけど、いなくなった。ビーチサッカーの(環境面の)厳しさを知り、あきらめた。自分はつらいことありましたけど、生き残れたことでいろんな人と出会えた。続けて良かったなと思います」
17年、仲間が立ち上げた東京ヴェルディBS(Jリーグ東京ヴェルディと提携関係)に加入した。結婚を機に20年、IT企業の株式会社ProVisionに「アスリート社員」として迎え入れられた。
暮らす鎌倉から毎朝、始発電車で東京・立川にある「TAHICHI BEACH(タヒチビーチ)」に片道2時間かけて通った。午前中に練習し、午後から横浜市にある会社で仕事をこなし、帰宅は午後10時という生活。それでも「苦ではなかった」と言い切る。
会見に参加した高校時代の恩師は「よくしかりましたが、非常に我慢強かった。アテになるし、いい選手だった」と振り返り、これまでの競技人生をねぎらった。
どんな境遇にもめげず、全力を出し切れる強さ。原口さんの最大の持ち味だった。それは砂浜ゆえに肉体的な負荷の大きいビーチサッカーの特性にもはまった。
■W杯UAE大会で世界一狙う
選手兼任の茂怜羅オズ監督率いるビーチサッカー日本代表は、3月に4年ぶりの開催となるアジアカップ(16~26日、タイ・パタヤ)を控えている。ここで3位以上に入れば、今年予定されているW杯UAE大会(日程未定)の出場を手にする。
ライバルとなってくるのはイラン。アジアのレベルは年々上がっており、UAE、タイ、中国が追う展開だという。
「次は世界一しかない。目指せるチームだと思う。僕以外は残っているので経験値がある。そこへ若い選手が刺激となって期待できるし、確率的には優勝を目指せると思います」
プロとしてリーグが確立されているブラジル、ポルトガル、スペイン、ロシアとは大きく環境は異なる。それでもラモス監督に厳しく育てられた技術と「日本人としての誇り」は今も引き継がれているのだという。
サッカーに打ち込んだ高校時代、こんな未来は予想できましたか?
そう問うと、満面の笑みで「できないですよ。人生何が起きるかわからない、自分が体験しているので伝えたい」。
ぶれない。
我慢強く続ける。
結果ばかり気にしない。
そして走り続けた先に「新しい景色」が見えた。
涙はなく晴れやかな笑顔に包まれた引退会見は、さわやかな海風のように心地よかった。【佐藤隆志】