<1997年11月17日付、日刊スポーツ紙面-日本W杯初出場

 長沼健会長、悲願の48年

 4つの夢実現へ

 から>

 長い長い挑戦だった。初めて世界へ挑んだのが1954年(昭29)のスイス大会予選。以来アジアの壁を一度も突破することができず、日本サッカーは辛酸をなめ続けた。非現実的な夢から目標に変わり、今ようやく目の前に広がるW杯。世界への挑戦の歴史は、日本サッカーの歴史そのものだった。選手として、監督として、日本協会のトップとして、その歴史の中にいた長沼健会長(67)は、この日もマレーシアで歓喜の時を迎えた。

 54年3月7日、日本は東京の神宮競技場に韓国を迎えた。初のW杯予選は、その後長くライバル関係になり続ける韓国との初の試合でもあった。まばらな観客が見つめる中、背番号10を背負う23歳のFW長沼は、記念すべきW杯予選初ゴールを挙げた。世界への挑戦の第一歩でもあった。

 長沼は「当時はW杯なんていっても夢物語。エベレストよりも高い山だった」と振り返る。日本サッカーのFIFA(国際サッカー連盟)復帰は50年。まだ、W杯がどういうものかも分からないうちに、予選に参加していた。結局、この一戦は韓国の底力が爆発し、1-5と完敗。長沼は、自らのゴールも忘れて彼我の力の差にがく然とした。

 58年のスウェーデン大会の予選は、東京開催のアジア大会を優先するために不参加。今では考えられないが、当時としては不思議でもなかった。長沼もア大会で頭がいっぱいだった。そして、ア大会後に代表を引退。その後、古河電工の監督兼選手としてタイトルを総なめにし、代表から復帰の要請もあった。しかし、「社業に優先するため」に辞退。「世界は、あまりに遠かったんです」。

 そのころのサッカー界、いやスポーツ界は、すべてが64年の東京五輪に向かっていた。プロの参加するW杯に出ると、五輪出場資格が危なくなるといわれる時代だった。W杯挑戦など、本気で考える関係者もいなかった。62年、チリ予選敗退後に監督に就任した長沼にとっても同じだった。

 東京五輪でベスト8に入った日本代表イレブンは、66年イングランド大会に行った。といっても「視察」だ。率いたのは、監督の長沼。「五輪のご褒美に、選手たちに見せたかった」。競技場に入ると、スタンドから大きな拍手が起きた。この大会でベスト8に入った朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の選手と間違えられたのだ。「ただ、すごい大会だな、てね」。まだまだ夢だった。目標というには遠すぎたのだ。

 68年メキシコ五輪3位。日本中が沸き返ったが、長沼は次の目標を見ていた。「今度はプロアマ問わないW杯に出たい」。ひそかな自信を持って臨んだ70年メキシコ大会予選は、直前に釜本が病に倒れて大黒柱抜きで戦った。豪州、韓国に完敗し、長沼も志半ばで監督の座を去った。

 72年に監督に復帰し、74年西ドイツ大会予選に臨んだが、これも完敗。76年に退任すると、直後に日本協会の専務理事に就任。今度は、日本代表をバックアップする裏方に回った。

 「夢は4つあった。プロリーグ創設、ナショナルトレーニングセンター建設、W杯招致、そしてW杯予選突破」。87年に副会長に就任した後は、次々と夢がかなった。Jリーグ創設、Jビレッジ建設、2002年日韓W杯共催。「あとはW杯に出ることだけ」。

 85年には、自らが代表監督時代に指導した森孝慈率いる代表が、W杯への扉に手をかけた。93年(平5)には、初の外国人プロ監督として招へいを決断したオフトに引っ張られ、W杯への扉を大きく開いた。あと一歩、踏み出すことはできなかったが、手ごたえはあった。

 「サポーターの応援、マスコミのバックアップ、すべてが夢みたいだね」。自らの現役時代と比較して目を細めた。夢は、現実になった。

 (敬称略)

 

 ◇日本のW杯挑戦史◇

 ◆1954年スイス大会(竹腰重丸監督)

 52年のヘルシンキ五輪で、日本代表は「経済事情から勝ち目のない団体競技は派遣しない」との方針から出場見送り。そんな時代だったがW杯予選初挑戦。ライバル韓国に1分け1敗で出場を逃した。

 ◆62年チリ大会(高橋英辰監督)

 日本協会は60年夏、代表を約50日間の欧州武者修行に送り出し、「日本サッカーの恩人」クラマー・コーチ(西ドイツ)を招へい。W杯予選は韓国に連敗したが、実力は急上昇してきた。

 ◆70年メキシコ大会(長沼健監督)

 68年メキシコ五輪銅メダルの翌年にW杯予選に臨んだが、エース釜本の病気欠場もあって韓国、豪州にそれぞれ1分け1敗。クラマー氏は「日本サッカーは危機に陥った」と指摘した。

 ◆74年西ドイツ大会(長沼健監督)

 岡野俊一郎監督に代わって、前回予選を率いた長沼監督が復帰。香港、イスラエルに連続完封負けを喫した。

 ◆78年アルゼンチン大会(二宮寛監督)

 イスラエル、韓国に完敗。釜本が代表のユニホームを脱ぐ。予選翌年のアジア大会でもグループリーグで敗退し、二宮監督は辞任。

 ◆82年スペイン大会(川淵三郎監督)

 渡辺正監督が急病で倒れ、川淵強化部長(現Jリーグチェアマン)が暫定監督として臨んだ。準決勝で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に屈す。

 ◆86年メキシコ大会(森孝慈監督)

 悲願の本戦初出場を目前にしたが宿敵韓国に連敗。国立競技場での試合には代表同士の試合で初めて超満員の観客が集まった。

 ◆90年イタリア大会(横山謙三監督)

 プロリーグ創設の機運が高まる中、1次予選で敗退。代表の低迷期が始まる。

 ◆94年米国大会(オフト監督)

 Jリーグ開幕年にW杯予選に挑戦。最後のイラク戦に勝てばW杯初切符だったが、ロスタイムで2-2の同点に追いつかれる“ドーハの悲劇”。ほぼ同時スタートの試合で北朝鮮を3-0で下した韓国に得失点差で抜かれ、本戦出場を逸す。