元日本代表の鹿島アントラーズDF内田篤人(32)が23日、本拠地カシマスタジアムでのガンバ大阪戦で現役生活に終止符を打つ。

昨季まで鹿島を率いた大岩剛前監督(48=JFA指導者養成インストラクター)が引退発表を受けて取材に応じた。同じ静岡出身で、現役時代にはセンターバックとサイドバックとして鹿島伝統の4バックを支えあった。選手と監督の両方の立場で関わった唯一の人物が、ラストマッチを控える内田へメッセージを寄せた。内田も昨年12月、天皇杯決勝を前に本紙へ寄せていた手記の一部で、退任が決まっていた大岩氏への思いを明かしていた。準優勝に終わって掲載は幻となっていたが、決勝が行われた元日から235日の時を経て、2人の鹿島を愛する思いが交わった。【取材・構成=杉山理紗】

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○大岩剛氏

引退を聞いてびっくりした。出会ったときの淡々とした、ひょうひょうとした印象は、今も変わらない。それでいて静岡の人間独特の空気、負けず嫌いな感じがあった。

(06年に)入団してすぐに試合に出るようになり、代表にも呼ばれた。疲れていただろうし、ケガしないかと心配していた。16歳も離れていたこともあって、優しく気遣うことしかできなかった。厳しいことは満男(小笠原)や岩政が言ってくれていたと思うから。年の離れた弟か、息子のような存在だった。

(10年の)篤人の渡欧後、プライベートでシャルケに行き、試合を見たり、食事をしたことがあった。スタジアムの雰囲気、選手の距離感、技術や戦術、プレー強度など、相当レベルの高いところでやっていると感じた。ごまかしはきかないよね、逃げるようなプレーは見抜かれるよね、と話したことを覚えている。あのとき体つきは相当大きくなっていたし、足は削られて傷だらけだった。そういう世界で戦っているんだと感じさせられた。

18年に鹿島に復帰して、19年には満男から主将を受け継いだ。いろんな期待や責任を載せちゃったかと、重いものを背負わせたかと、反省している。100%のプレーができず、主将として説得力のある言葉がけがでできないジレンマもあったと思う。それでも若い選手に声をかけたり、よくやってくれていると思った。でもそういう“パフォーマンス”を期待していたわけじゃない。若い選手がどれだけ感じ取れたかが重要。引退という決断に対して若い選手がどう行動するか、それが見られたときに、内田篤人という存在の大きさを感じるんじゃないかな。

お疲れさまと言いたいけれど、目の前にいたら、泣いちゃって声をかけられないかもしれないな。体をしっかりと休めて、リフレッシュしてほしい。

○内田篤人

(昨年12月に)剛さんの退任を知らされた日、練習後にグラウンドで少し話した。選手時代から2人きりの時は「あっちゃん」と呼ばれる。「剛さん、すみません」と言ったら、「あっちゃんが責任を感じることはないよ。監督になったときから覚悟はできているよ」と言っていた。

「すみません」に続く言葉は出なかった。だって俺、泣いていたもん。ネックウオーマーで顔隠して。面と向かってその話をするときはイヤだよ、「俺がクビにさせちゃった」と思うから。最後3試合使ってもらって、主将もして、1年通してケガもしたからね。

3月の磐田戦で右膝をケガした。半月板と内側(ないそく)と、鵞足(がそく)。そんなに時間がかかるとは思わず、次の試合もやろうと思っていた。少し時間がたって検査をしたら、先生から「手術してもおかしくない場所だよ」と言われた。俺は「手術するなら引退します」と言った。これ以上右膝にメスを入れたらキツイから。

結局、手術はしなくて済んだ。でもその後、なかなか良くならなかった。先生が「手術しても…」と言った意味が分かった。半月板はもともと傷ついているし、鵞足は先生が「一番治りにくいから問題」と言っていた。内側はケガの程度が3度まであって、3度になると手術が必要。検査の結果は2度で、手術の1歩手前だった。

結局半年くらい休んでしまった。ベンチに復帰してからは試合中、テクニカルエリアで声を出して、審判に注意されたこともあった。どこにいても自分のできる100%を、という意識でいるけれど、選手はベンチから声を出すのが仕事じゃない。

剛さんはいつも、若手の練習が終わるまで帰らない。荷物だって一緒に片付ける。しっかりと競争もさせる。本当に選手のせいなんだよ。特に俺が、監督の思いに応えられなかった。本当は試合に出て活躍しなきゃいけない、助っ人みたいなもんだから。選手のクオリティーの問題なんだよ。監督のせいじゃない。

2010年夏、内田は鹿島の誇りを胸にドイツへと渡っていった。その半年後に引退した大岩氏は指導者として鹿島の強化に努め、17年途中から監督に就任。その翌年に内田が復帰し、2人の運命が再び重なった。19年には小笠原氏の後任として内田が主将を務めたが、リーグ戦は3位に沈んだ。

当時を回想し「重荷を背負わせすぎた」と自分を責める大岩氏にも、「父のよう」と慕う指揮官の退任前に自身の力不足を嘆いた内田にも、根っこには「互いへの尊敬の念」と「鹿島への思い」があった。07年~09年シーズンの3連覇や18年のACL初制覇など、2人が鹿島にもたらしたものは大きい。今日8月23日、2人の強い信頼関係で刻んできた鹿島の歴史に、「内田篤人引退」という1ページが刻まれる。