今年はサッカー2002年ワールドカップ(W杯)日韓大会の開幕20周年となる。日刊スポーツでは「2002年W杯 20年後の証言」と題して、当時のキーマンたちが語る秘話などを連載。第4回は当時日本サッカー協会(JFA)副会長だった川淵三郎氏(85)。

02年W杯日韓大会は、史上初めてアジアで、しかも初の共催として行われた。当時日本サッカー協会(JFA)副会長として最後まで韓国との共催に異を唱えたのは川淵氏。有力だった単独開催が消滅した舞台裏、20年たった今思うこと…、キーマンが舌鋒鋭く語った。

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川淵 ちょうどリーグのプロ化を目指したころに招致が始まった。もっとも、最初は疑心暗鬼だったね。スタジアムもない、人気もない、ないものばかり。日本がW杯で戦えるのかという不安もあった。JFA専務理事の村田(忠男)さん1人が熱心で、日本サッカー界としてはあまり前向きではない感じだった。

日本が正式に国際サッカー連盟(FIFA)に立候補の意思を表明したのが89年。村田氏は90年W杯イタリア大会に乗り込み、ロビー活動を展開した。ただ、各国関係者やメディアの反応は「本気か?」と冷ややか。日本国内も決して盛り上がってはいなかった。

川淵 招致は、かなり有力だった。(FIFAの)アベランジェ会長が全面的に支持していたから。流れが変わったのは韓国が招致に名乗りをあげてから。94年に鄭夢準がFIFAの副会長になり、韓国に勢いが出た。それで、日本もみんな真剣になってきたかな。

Jリーグ発足、ドーハの悲劇を経て、日本人のW杯に対する関心も高まっていた。韓国との招致合戦になったことで、さらに注目された。開催地を決定するFIFA理事による投票は96年6月1日。直前になって、共催案が浮上してきた。

川淵 日本は単独でやりたいという気持ちだった。理事20人で投票し、同数ならアベランジェ会長が1票を入れる。日本は10票とれば勝てた。南米3票とアフリカ3票など9票は確実。あと1票が読めなかった。ただ、最後はアベランジェ会長の剛腕で日本になる、という考えもあった。

急転したのは投票を2日後に控えた5月30日、岡野俊一郎副会長のもとにFIFAのブラッター事務総長から電話が入った。「韓国は共催でもと言っているが、日本はどうか」という内容。背後にはブラジル人のアベランジェ会長とFIFA副会長の欧州連盟(UEFA)ヨハンソン会長の対立があった。韓国はUEFAに近づき、会長=日本開催を崩そうとした。

川淵 深夜に集まって話し合った。僕は断固戦って投票にすべきと言ったが、岡野さんは「そんな雰囲気ではない」と。アフリカの理事から泣きながら電話があり「欧州連盟から日本に投票するなら支援をしないと言われた。日本に投票できない」と。流れは、完全に共同開催に傾いていた。

日本陣営はFIFA本部のあるスイス・チューリッヒの小さなホテルを借り切り、連日作戦会議を開き、票読みなどを行っていた。しかし、この情報が韓国側に流れていたと川淵氏は言った。

川淵 エレベーターで会った人にあいさつをしたら、返事がない。これは韓国だと。部屋に盗聴マイクがないか調べるなど大変だった。日本の情報は筒抜けだったんだ。

結局、投票になることはなく5月31日に共催が決まる。W杯の1国開催を決めているFIFAのルールも無視した異例の事態。運営能力や実績などは負けるはずがなかったが。FIFA内部の権力闘争に巻き込まれた。

川淵 テレビでも「僕の顔色見たら分かるでしょ」と言ったし、不愉快極まりなかった。「日本で」と明言したアベランジェ会長も、最後は自分から共催を提案した。裏切られた気持ちだった。

具体的な大会運営についてFIFAと日本、韓国の話し合いがスタートした。開会式、決勝の会場、大会名称。川淵氏には韓国との交渉の中で驚いたことがあった。

川淵 話し合いで、こちらが下がれば韓国も譲ると思っていた。同じ顔しているんだから。ところが、引くと引いただけ押してくる。真ん中はとらない。韓国相手に引いたらだめ。考え方が違うんだと初めて分かった。

一緒に仕事をするために、韓国語を学んだ。韓国と日本の歴史本も読んだ。豊臣秀吉の朝鮮出兵から続く日韓の関係を知って、韓国への興味がわき、理解を深めた。共催への必要な準備だった。

川淵 日本が韓国でやってきたことも知り、反日感情も無理がないとも思った。しかし、それはそれ、これはこれ。遠慮はせずに、共催に対して主義主張は持つ。ただ、勉強はしてよかった。

川淵氏は、共催には互いの理解が必要だったという。それが、その後の日韓関係にもつながったと。W杯共催の決定を契機に、サッカー、スポーツだけでなく、芸術や音楽など文化交流も盛んになった。

川淵 互いに理解しあい、良い両国関係を築く上で、W杯の共催はよかった。いろいろなことを勉強しているうちに、共催でよかったと思うようになった。あの時と比べて今の日韓関係はよくないが、それでも交流はある。もし、あの時投票で日本が勝ったら、今よりひどい関係になっていたのではないかな。

当初思い描いた単独開催ではなかったが、W杯開催は多くのレガシーも残した。だからこそ、川淵氏はやってよかったと声を大にしていう。

川淵 1番はボランティアかな。それまで日本では一般的ではなかったスポーツボランティアが全国に広がった。スポーツを「支える」大切さを知った。それが、ラグビーW杯や東京五輪にもつながった。スタジアムが全国にでき、Jクラブも増えた。そのきっかけにもなった。有形無形、いろいろなものを残してくれた。スポーツの力は素晴らしい。【荻島弘一】

 

◆川淵三郎(かわぶち・さぶろう)1936年(昭11)12月3日、大阪府生まれ。大阪・三国丘高ー早大でFWとして活躍し、61年に古河電工入り。64年の東京五輪には日本代表として出場した。70年の現役引退後は、古河監督、日本代表監督、日本協会強化部長など歴任。88年に日本リーグ総務主事に就くと、改革に着手してJリーグを創設。初代チェアマンを務め、94年から日本協会副会長、02~08年同会長。バスケットボールのプロ化にも尽力。東京五輪では選手村村長も務めた。