「爆撃機」と呼ばれた元西ドイツ(当時)代表FWゲルト・ミュラー氏が15日に死去したと、同日にバイエルン・ミュンヘンが発表した。75歳だった。

同氏は同クラブに15年間在籍し、ブンデスリーガ歴代最多となる365ゴールをマーク。代表チームでは72年欧州選手権、74年W杯ではいずれも決勝戦でゴールを奪って、優勝の原動力となった。野性味あふれるプレースタイルも含め、「記録」にも「記憶」にも残る伝説的ストライカーだった。

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Bミュンヘンによると、ミュラー氏は15日の早朝に夫人と娘を残して亡くなったという。死因は明らかにされていない。

偉大な記録の持ち主だった。1964年にBミュンヘン入りし、同クラブで607試合で566ゴールを挙げ、7回の得点王。71-72年のリーグ戦での40得点という数字は、現在Bミュンヘンのエースであるレバンドフスキが20-21年に41得点するまで、半世紀近く破られなかった。その決定力の高さと、どんな体勢からでも泥臭くゴールを奪うことで「デル・ボンバー(爆撃機)」と呼ばれ、相手から恐れられた。

73-74年から欧州チャンピオンズ杯(現在の欧州CL)3連覇を果たし、自国開催だった74年W杯決勝ではオランダから決勝ゴールを奪った。クラブでも代表でも同志で“同部屋のパートナー”“兄弟”と振り返る「皇帝」フランツ・ベッケンバウアー氏は昨年、「ゴールへの執念は、仲間までも圧倒した」「今後100年間、人々は彼について語り続けると確信している」と話していた。

引退後、一時はアルコール依存症に苦しみながら、元チームメートの支えで克服したとも伝えられ、Bミュンヘンでユース世代のコーチなども務めた。15年にはアルツハイマー病の治療を受けていることが発表されていた。同クラブのCEOであるオリバー・カーン氏は「彼の業績は比類ないもので、Bミュンヘンとドイツサッカー界の偉大な歴史」とその死を悼むとともに、選手としてだけでなく人柄にも敬意を表する声明を発表している。

<ゲルト・ミュラー>

◆生まれ 1945年11月3日、西ドイツ・バイエルン州ネルトニンゲン

◆所属クラブ 地元のクラブでキャリアをスタートし、64年にバイエルン・ミュンヘンに入団。15季プレーした後、米国のクラブに移籍し、82年に現役引退。

◆タイトル 西ドイツ代表では72年欧州選手権、74年W杯で優勝。Bミュンヘンではリーグ優勝4回、欧州チャンピオンズ杯3回。個人ではブンデスリーガで7度の最多得点。70年W杯でも1大会10ゴールを挙げて得点王に輝いた。

◆リトル・ゴール 175センチ、77キロと、ずんぐりとした体形ながら脅威の得点力を見せ、ペナルティーボックス内、至近距離からの「リトル・ゴール」を積み重ねた。いわゆるゴールへの嗅覚が鋭かった。

◆歴代最多得点 Bミュンヘンでは公式戦通算607試合566得点。ドイツ1部リーグ通算427試合365得点。西ドイツ代表では通算62試合68得点。W杯での通算14得点は06年ドイツ大会でブラジル代表FWロナウドに抜かれるまで個人通算最多だった。