【サンドニ=牧野真治】やっぱり日本は強かった!女子マラソン日本歴代2位の記録を持つ野口みずき(25=グローバリー)が銀メダルを獲得し、アテネ五輪代表に内定した。大きく足を跳ねるストライド走法を武器に2時間24分14秒で、キャサリン・ヌデレバ(31=ケニア)に次いでフィニッシュ。97年アテネ大会女子1万メートル3位の千葉真子(27=豊田自動織機)が2時間25分9秒で銅メダル。大会史上初めてトラック、マラソンでのメダル獲得となった。4位にも坂本直子(22=天満屋)が入った。

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大会のフィナーレを華々しく飾ったのは野口だった。私、パリジェンヌになりたい―。大マジメにそう言って飛び出した42キロ。凱旋門、エッフェル塔と続く道のりを軽やかに抜け、サンドニの大観衆に包まれた。手にしたのは夢にまで見た、自らの名が彫られた銀メダル。「もう、うれしくってしょうがないです。メダル、メダルと思って走っていました」。150センチの小さな体を日の丸にくるんだウイニングランは、そのまま五輪発祥の地アテネへと続く。野口がパリで風になった。

ふらふらと足が左右によれた。完全燃焼。ゴールした瞬間、持てる力は使い果たしていた。過去マラソンは2戦2勝。ハーフマラソンに限れば、21戦で日本人に負けたのはわずか2回だけ。そんな女王も今回ばかりは「恐怖感もいっぱいでした。アテネがかかってたんで…」という。優勝候補のヌデレバのスパートに反応した日本選手は3人もいた。金メダルとは別にもう1つの戦い。ゴール後は、精も根も尽き果てていた。

常識を覆す走りで勝った。全身のバネを使ったストライド走法は「和製ラドクリフ」の異名を持つ。ピッチ走法が全盛の時代。石畳が多く、路面の硬いパリでは足のスタミナ消耗が激しく不利だといわれた。だが、野口にも意地があった。黙って練習量で反発した。40キロ走は6回。5キロのインターバル走では「ワンワン泣きながら走りました」。

守った鉄則。首から拡声器をぶらさげ、バイクに乗った藤田監督から関西弁が響いた。「30キロまでは出たらあかんで!」。力のあるアフリカ勢を相手に早めのスパートでは持たないと読んだ。その言葉を忠実に守り抜いた。敵は他にもいた。序盤からハム(北朝鮮)に影のようにマークされた。野口は明らかにいらだっていた。「もう離れろって…。足が当たるんです。だいぶ消耗しました。でも大丈夫ですよ。それより、私、にらんじゃいましたけど、後で仕返しとかないですよね」。

環境には恵まれていなかった。97年に名門ワコールの門をたたく。だが、その1年後に藤田監督が指導方針を巡り、突然退社した。野口も後を追った。だが、99年にグローバリー社の陸上部が発足するまで約1年半は失業保険で暮らしていた。仲間同士で「チーム・ハローワーク」と言い合い、励ましあった時期があった。どんな状況も笑ってはね返すすべを身につけた。

出場枠3の狭き門を突破し、アテネ切符を手に入れた。高橋尚子と並ぶ「女王」の誕生だ。それは食欲でも匹敵する。中国・昆明合宿では1日20匹、約1000匹のエビを食べたという逸話を残した。パリでは大好物の「マグロ」に執念を燃やした。7月上旬のマラソンコース視察の際、手にしたのはコースの感触だけではない。「おいしいマグロ店を見つけておいたんです」と笑った。

アテネへの課題は、そのままヌデレバとの差。ラストのスピードだ。「だって足が長いんですもん。でも、最後のトラックでは行けるかなって思いましたよ。また練習して、次は絶対に勝ちます」。金メダルへの挑戦は今日から始まる。